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哲学的人間論

第1章 世界論的視点

第1節 世界

1.必然性

 もとより人間は一人真空状態のなかで生きているのではない。人間は他の人間や事物のあいだに生まれ、それらに囲まれて生きている。人間はつねに他の人間と交わり、もろもろの事物と関わり、それらとさまざまな関係を結ぶ。生きるとは他の人間や事物に囲まれて、それらと不断に交渉することである。人間を取り囲む無数の事物と他の人間、それらが互いに入り混じって織りなす複雑きわまりない関係、そしてそこから生じる多種多様な出来事の総体を世界という。この総体としての世界を構成している無数の人間や事物、それら相互の関係やすべての出来事を世界の構成要素と呼ぶ。世界の構成要素は、実在する事物や人間だけでなく、観念や想像、仮象や虚偽などを含む、およそ考えられる限りのものを包含する。世界を構成するこれらすべての要素をおしなべて事象と呼ぶことにする。事象は、事物や関係や出来事と、それらに関与する人間を包含した概念である。世界は人間や事物や関係や出来事など存在する限りの事象を包摂する。世界の事象は際限なく発生し、互いに複雑に絡み合いながら、かたときもとどまることなく変化する。ありとあらゆる事象を構成要素として包摂する世界は、美しいものも醜いものも、高貴なものも下賤なものも、善も悪もいっさいがっさい呑み込んで変化する。

 あらゆる事象がこの世界で起こるように、人間が生まれることもこの世界のなかの事象である。人間はおよそ生まれるのであるならば、この世界に生まれるほかはない。人間が生まれてくるのはつねにこの世界であって、別の世界ではない。これについて人間に選択する権利はまったくない。この世界に生まれることを拒むこともできなければ、この世界に生まれたことを打ち消すこともできない。人間にとって、この世界に生まれることは避けることのできない出来事である。だが、それは人間がこの世界に生まれることが必然的であるということを意味しない。必然性とは「必ず然る」ようにあることである。これにたいして偶然性とは「偶(たまさか)に然る」ようにあることである。必然性は因果必然性と根拠必然性に分けられる。因果必然性とは、事象がなんらかの原因の結果として然るようにあることである。世界の事象は因果関係において成立している。因果関係を構成している原因と結果の連鎖を因果連関という。因果連関の内部では原因と結果のあいだに必然性が成り立つ。この因果連関の内部で成り立つ必然性が因果必然性である。因果必然性を命題化して、「すべての事象は原因と結果の関係にある」と定式化したのが因果法則である。因果法則によってすべての事象は原因と結果の関係によって説明される。つまりすべての事象は、それぞれの原因から生じた結果として把握される。

 世界のすべての事象は因果法則によって支配されており、世界は因果的な秩序で成り立っている。因果的な秩序とは、過去と現在をつなぐ因果的な脈絡をいう。世界は原因と結果の連鎖により因果的な脈絡で構成されている。しかしここで注意を要するのは、これは特定の原因が必ず特定の結果をもたらすことを意味するものではないということである。世界は因果的な秩序で成り立っていながら、特定の原因が特定の結果をもたらさないのは、どんな因果連関も別の因果連関によって干渉されるからである。干渉を受けた因果連関はなおも引き続き因果的に進行するが、それは所期の因果連関とは異なる経過をたどる。たとえば川の水は重力の作用が原因となって高きから低きへ直線的に進む。しかし途中で大木が倒れてせき止められたら、川は迂回して進む。この場合、水が高きから低きへ流れるのは因果的必然であるが、倒木によって流れが妨げられたのは偶然である。しかし樹木が倒れたのが偶然であるのは川の流れにとってであり、樹木にとっては根が枯死したことを原因とする結果である。この場合、ある因果連関(倒木)が別の因果連関(川の流れ)に干渉したのである。川はそれ自体の因果連関に従いながら倒木の因果連関に干渉された結果、倒木を迂回して流れる。その行先は切り立った崖になっていて、水はそこから滝のように流れ落ちるかもしれない。あるいは水は岩や立ち木にさえぎられて幾筋もの細流になって流れるかもしれない。あるいは倒木にさえぎられた水はどこにも流れることができずに、柔らかい土壌に浸透して辺りを湿地に変えるかもしれない。これらの結果はすべて川が直線的に流れることからすれば偶然の結果であるが、いずれも因果法則に従っている点で必然的である。川の水がまっすぐ流れるのを妨げる要因は無数にあり、その結果水が進む経路もさまざまであるが、全体として因果的な秩序を保っているのである。

 根拠必然性とは、事象がなんらかの根拠から然るようにあることである。根拠とは、物事が然るようにあることの理由となるべきものである。ある生徒が授業に遅刻した理由は電車が事故で遅れたからであり、別の生徒が遅刻しなかったのは、電車ではなく自転車で通学していたからである。家の庭に朝顔が咲いているのは春先に種を植えたからであり、植木鉢の花が枯れたのは1週間家を留守にして水をやらなかったからである。ほとんどすべての出来事は、然るようにあることの理由がある。だが、この世界には理由がない出来事もある。その最たる例は、人間がこの世界に生まれてくることである。端的に人間がこの世界に生まれてくる理由はない。もちろん一人の人間が赤ん坊としてこの世に生まれてくるのは両親の生殖行為の結果であるが、それは因果必然性であって根拠必然性ではない。根拠必然性を尋ねる問い、たとえば「人間はなぜこの世界に生まれてくるのか」という問いにたいする答えは存在しない。この問いに関連して「人間はなんのために生きるのか」とか、「人間が生まれてくるのがこの世界であって別の世界でないのはなぜか」とかいう問いが立てられるが、いずれも答えはない。むしろこれらの問いに答えはないという答えが真理である。なぜなら世界と人間が然るようにあることに根拠はなく、人間がこの世界に生まれるのは偶然だからである。「人間がこの世界に生まれてくることは根拠があるが、人間には秘められているだけだ」といってもはじまらない。必然といい偶然といい、それはただ人間にとっての必然であり偶然だからである。もし人間にとっての必然や偶然でないとしたら、いったいだれにとっての必然であり偶然だろうか。

 因果必然性と根拠必然性を同一視して、人間がこの世界に生まれる理由を生殖プロセスによって説明するのはまったくの的外れである。それは因果必然性に根拠の役割を担わせようとすることに等しい。生殖プロセスそのものは因果的な過程である。人間の精子と卵子が子宮のなかで結合すれば受精卵が生じ、そこから人間が誕生する。この場合、精子と卵子の結合が原因となって受精卵という結果をもたらす。したがって精子と卵子の結合と受精卵の発生のあいだには因果必然性がある。これを定式化して精子と卵子が結合すると受精卵が生じるというのが因果法則である。したがって受精卵の発生という結果は、精子と卵子の結合という原因によって説明される。しかし根拠必然性で問われているのは、新生児が生まれるまでの原因と結果の連鎖ではなく、およそ人間がこの世界に生まれてくる理由である。それは精子と卵子が結合して受精卵が生じるという事象レベルの問いではなく、存在レベルの問いである。事象レベルの問いを定式化すれば「世界はどのようにあるか」であるのにたいし、存在レベルの問いは「世界が存在するのはなぜか」である。因果法則は事象レベルの問いには答えることができても、存在レベルの問いに答えることはできない。なぜなら事象レベルの法則である因果法則は事象の因果必然性は説明できても、そもそも因果必然性が存在するのはなぜかは説明できないからである。因果法則はあらゆる事象を因果関係によって説明するが、因果法則そのものが存在する理由は説明できない。世界が存在する根拠がないように、因果法則が存在する根拠もない。それゆえ因果法則が存在する理由はない。世界のあらゆる事象は因果法則に照らして必然的であるが、因果法則そのものは人間がこの世界に生まれてくるのと同様に偶然である。たとえ世界のあらゆる事象が因果法則によって支配されていようとも、因果法則そのものは根拠なく偶然存在する。

 人間がこの世界に生まれてくる理由を説明できないのは、人間がこの世界に生まれることがいかなる根拠からも規定されていないからである。人間はただこの世界に生まれるがままに生まれる。人間がこの世界に生まれることは根拠のない偶然であり、生まれないこともありえる。人間は根拠なく生まれ、しかもおよそ生まれるのはこの世界である。それは絶対に避けられない。あたかもさいころを振って出る目はまったくの偶然でありながら、いずれかの目が出ることは避けられないように。人間は根拠なく偶然この世界に生まれる。人間がこの世界に生まれるのは偶然であるから、人間はそれにたいして準備もすることも、抵抗することも、異議を唱えることもできない。人間がこの世界に生まれるのは偶然でありながら絶対に避けられない。むしろ人間がこの世界に生まれるのは偶然だからこそ、それは予測不可能であり、どんな方法や手段をもってしても不可避なのである。

2.因果性

 世界は因果法則に支配されており、すべての事象は原因と結果の関係にある。事象が原因となって結果を生む働きを因果性と呼ぶ。事象が原因となってなんらかの結果を生み出すのは、個々の事象がそれぞれ因果性を発揮するためである。しかし実際には個々の事象がそれぞれ因果性を発揮すると、それらの作用は互いに干渉しあい、相殺されたり、増幅されたり、変容されたりする。そのため同じ原因が、因果性の相互干渉の影響を受けてそのつど異なる結果を引き起こす。個々の事象がそれそれ因果性を発揮し、それらの因果性が相互に干渉するため、因果性によってもたらされる因果連関も別の因果連関によって絶えず影響を受ける。そのため因果連関は所期の結果とは異なる結果を生み出す。しかも「すべての事象は原因と結果の関係にある」という因果法則は、因果性によって生じた結果を一瞬たりともそのままにしておかない。因果性の結果は瞬時にしてそれ自体が原因となって、あらたな結果を生み出す。あらたに生み出された結果も間髪入れずに原因となって因果性を発揮する。そのあいだにも因果性は絶えず相互に干渉しあうのである。

 たとえば「マッチを擦ると火が着く」という因果連関では、マッチを擦ることが原因で、火が着くことが結果である。しかしたとえマッチを擦っても別の因果連関が干渉したら着火しない。たとえばマッチ棒の頭薬の燐が湿っていたり、マッチ箱の側薬がすり減っていたら着火しない。マッチを側薬に擦る力が弱すぎたら摩擦熱が起きず、強すぎたら軸木が折れてやはり火は着かない。ここにはマッチ棒の硬さや強度などの物理的要因だけでなく、マッチを擦る人間の筋力や運動神経、さらにそれらを制御する大脳皮質などの生理的要因が関与している。だが、これらすべての条件が整っても、マッチを擦った瞬間に風が吹いたら火は着かない。風の発生は気圧、気温、地形、気流などさまざまな周囲条件に規定されている。このように一つの因果連関には無数の要因が関与している。マッチを擦ったら火が着くことを因果法則で説明しようとしたら、考えられる方法は二つしかない。一つは、因果連関に関与する要因をすべて数えあげることである。しかし因果連関は別の因果連関へと連なっており、それらに関与する要因の数は無限のため、この方法は途中で断念せざるをえない。もう一つは、因果連関に関与する無数の要因を無視して、人為的に設定した枠組みのなかで意図した因果関係に合致する要素にだけ焦点を当てることである。実際には無数に存在する要因の不断の相互作用から、特定の原因と結果をもたらす要因を取り出そうとしたら、思弁的操作によって意図的に限定された局面を切り取るほかはない。これは科学が実験的操作によって一定の条件のもとで仮説を実証するために採用している方法論でもある。1)

 世界は全体として因果法則によって支配されているが、実際には数限りない因果連関が相互に干渉しあうため、必ずしも特定の要因が原因となって特定の結果を生じるということにはならない。仮に特定の原因が特定の結果をもたらすとしたら、いいかえれば特定の原因が特定の結果しかもたらさないとしたら、自然はおそろしく単調なものになっただろう。特定の原因が特定の結果をもたらすとは、特定の原因と特定の結果のあいだに他の要因が介入せず、それぞれが相互作用を及ぼすこともないということである。そうなったら自然界に「突然変異」と呼ばれる変化は起こりようがない。その場合は生物が爬虫類や鳥類や哺乳類などへ分化することはもとより、動物と植物の区別、それどころか生物と鉱物の区別すら生じなかっただろう。自然界では、特定の原因が特定の結果をもたらすのではなく、さまざまな要因が互いに干渉しあって異なる結果を生み出している。だからこそ自然はこのうえなく多様なのである。自然は自然を構成する無数の要因が互いに絡み合い、相互に作用しながら生成する。一つの現象は無数の要因の直接的または間接的な相互作用によって成立する。ある要因と別の要因との相互作用がまったく新しい因果性を生みだし、あるいは互いの因果性を打ち消す。それらの要因が複雑に絡み合い、変化し、消滅し、あらたな要因を生み出しながら、瞬時も休むことなく生成を続けているのが自然である。

 特定の原因が必ずしも特定の結果をもたらさないのは自然だけでなく、人間の事象についてもいえる。たとえば列車がA駅を出発してB駅に向かっているとする。列車がB駅に到着するのは15分後であると推定される。これは両駅間の距離、列車の走行速度、運転パターンなどに基づいて容易に算出できる。列車がA駅を出たという連絡を受けたB駅では、列車が15分後に到着することを前提として列車を受け入れる準備をする。制御装置はポイントを切り替え、信号機は進行信号を現示し、駅員は乗客に列車到着のアナウンスをする。しかしA駅からB駅に向かう途中で列車に人が飛び込んできたら、列車の運転士は急停車する。ブレーキが間に合わず轢いてしまったら、列車を止めて駅に通報する。それを受けて救急隊が出動したり、警察が現場検証をしたり、散乱した肉片を片付けたりなどで、列車は当分止まったまま動かない。警察が自殺者の身元を調べた結果、ギャンブル好きで多額の借金を背負い込んだうえに失業、複数の金融業者から返済を厳しく迫られていたことが判明する。このような個人的事情と、債務者が走っている列車に飛び込むこととのあいだに心理的な因果連関を認めるならば、その限りで自殺は必然的である。しかし列車がA駅を出発してB駅に向かうことと、借金を抱えた人間がその列車に飛び込むこととのあいだに必然性はない。それぞれ別個の因果連関の必然性が出会って列車の非常停止という予想外の出来事を発生させたのである。しかも列車の到着を予定時刻より遅らせる可能性のある要因は一つではない。沿線のマンションのベランダに干してあった洗濯物が強風に飛ばされて、列車の運転席の窓を覆ったことが原因で急停止することもあるかもしれない。それ以外にも落雷や地震などの気象的要因、信号機や制御装置の故障などの機械的要因、運転士のミスや集中力の欠如などの人為的要因と、数え上げたらきりがない。それらの要因自体を個別に見ればいずれも因果連関を形成し、その限りで原因と結果の必然性を備えている。しかしそれぞれの因果必然性がどのように遭遇し、どのような結果を生み出すかはまったく偶然にゆだねられている。この意味で必然性と偶然性は対等なレベルの対概念ではない。どんな因果連関も絶えず別の因果連関に干渉される可能性があるため、因果必然性はつねに偶然性に脅かされている。いってみれば偶然性の大海原に大小無数の因果必然性が浮かんでいるのである。

3.事実性

 この世界に生まれるとは、他の人間や事物や出来事など世界の事象のあいだに生まれることである。人間はこの世界に生まれることによってさまざまな事象に取り囲まれる。人間が事象に取り囲まれるとは、人間にたいして事象が与えられることである。この世界で人間に与えられる事象を所与という。所与は与えられるのであるから、人間は所与にたいして受け身である。人間はみずから選ぶことなくこの世界に生まれることにおいて受動的である。しかしまた人間は生まれた世界で事象が与えられることによっても受動的である。人間はこの世界で根本的な意味で二重に受動的である。

 世界の事象は本質的に所与であり、人間がみずから生み出すわけではない。もちろん人間が自然に働きかけて、新しい事象を生み出すことは可能である。たとえば土地を耕して種を播き、成長した成果を穀物として刈り入れることはできる。このとき人間は機械なり道具なりを使って土地を耕すことで能動的に振る舞う。種をまく行為も、穀物を刈り取る行為も能動的である。しかし人間は土地が所与としてあらかじめ与えられているからこそ、土地にたいして働きかけることができるのである。同じことは種や穀物についてもいえる。耕した土地に種をまくのは、種が人間に与えられているからである。穀物を刈り入れることができるのも、土地を耕して種をまいた成果が人間に与えられるからである。土地も種も穀物も事象として人間に与えらえれた所与である。活動のレベルで見れば、人間は土地や種や穀物にたいして能動的に働きかけるが、存在のレベルで見れば、それらはすべて人間に与えられた所与である。所与にたいして人間は根本的に受動的である。

 人間にとって世界のすべての事象は所与として存在する。人間が土地を耕すのは所与として存在する土地に働きかけることである。その土地に穀物を実らせるのは、活動の結果を所与として存在させることである。あらゆる活動の自発性は、活動の結果をあらたな所与として存在させることで発揮される。この点では芸術活動も同様である。音楽ならば音を、彫刻ならば像を、絵画ならば色と形を人間に与えられる所与として生み出すのが創造である。

 人間にとって世界のすべての事象は、根本的に所与として存在する。事象が所与として存在することを所与性という。所与性とは、事象が人間にとって所与として存在することである。この世界で人間にとって事象は与えられたものであり、この世界に生まれた人間は事象を所与として受けいれるほかない。所与性は、人間と世界との最も基本的な関係である。人間はこの世界に生まれることによって世界の事象と所与性の関係にはいる。人間がこの世界に生まれるとは、所与に引き渡されることである。この世界に存在する限り人間は絶対に所与性から逃れることができない。この世界で人間はいやおうなく数限りない所与と向き合う。人間には所与と向き合う以外の選択肢はなく、人間にとって所与性は不可避である。人間はこの世界に生まれる以外の選択肢がないように、所与として与えられる事象を受けいれるほかはない。この世界に生まれた人間は不可避的に多種多様な所与に取り囲まれる。人間がこの世界に生まれるとは所与に取り囲まれることであり、それはまた世界の事象が所与として与えられることである。たしかに人間はなんらかの与えられた事象を拒むことができる。この場合、与えられた事象は物品であったり報酬であったりする。人間はそれらをあえて拒むことによって、「自由意志」を立証することもできよう。しかし与えられた事象を拒むのは、それが与えられたものとして存在することを前提としている。与えられた事象を拒むことは、かえってその事象の所与性を、ひいては所与の不可避性を証明するものである。

 世界と人間が然るようにあることに根拠はなく偶然であるように、人間にとって事象が所与として与えられることも偶然である。目の前にある事象が然るようにあるのも偶然である。たとえば目の前の赤いバラは、昨日訪ねてきた友人が駅前の花屋で購入して持参し、花瓶に入れて机の上においたものである。しかし友人が選んだバラの花弁の色は濃い赤ではなく淡紅色か白であってもよかった。それはバラでなくガーベラでもシクラメンでも、店頭で売っている他のどんな花でもよかった。友人が持参するのは花でなくワインかチョコレートでもよかった。そもそも友人はなにも持参しなくてもよかった。このように所与として与えられた事象が然るようにない可能性は無限に広がっている。しかし目の前の事象が然るようにあることは所与として、あるがままに受け入れるほかはない。

 人間はこの世界で所与性において他の人間や諸事物と出会い、人間と諸事物が織りなす関係や出来事に直面する。人間がこの世界に生まれるのは偶然であり、世界の事象が人間に与えられることも偶然である。しかしたとえ偶然であっても、世界を構成する個々の要素が人間に与えられていることは否定できない。世界の構成要素がどれほど目まぐるしく入れ替わろうとも、そのつど特定の事象が不可避的に人間に与えられていることは変わらない。このように特定の事象が不可避的に人間に所与として与えられていることを事実という。人間が偶然この世界に生まれたこと、そしてこの世界で所与にさらされ、所与と向き合うことは回避不能であり、変更のきかない事実である。目の前に赤いバラがあることも、その花弁が濃い赤をしていることも偶然であり、バラでないことも、その花弁がこの色でないことも可能であった。しかし現に深紅の花弁をもつバラが然るようにあるのは事実である。目の前のバラは然るようにないこともありえた無限の可能性のなかから、これしかない事実として現にある。所与の無限の可能性のなかから事実が、あたかも大海から頭を突き出した孤島のように、まさに現にあるように浮かび上がっているのである。

 人間がこの世界に生まれたことも、そのなかで無数の事象に取り囲まれていることも、そのつど特定の事象と遭遇することも、まったくの偶然でありながら変更のきかない事実である。偶然生まれたこの世界で人間に世界の事象が与えられ、人間はいやおうなくそれらと向き合わされる。それは人間にとって絶対に回避することができない事実である。世界の事象は、変更することも回避することもできない事実として人間に迫る。このように事実が変更することも回避することもできないことを事実性と呼ぶ。人間はこの世界で特定の事象が与えられ、それらと不可避的に直面する。この世界で無数の人や物、それらが相互に織りなす複雑きわまりない関係、そしてその関係から生じる数限りない出来事が、事実性の圧力をもって人間に迫る。人間はこの世界でいやがおうでも無数の事実と向き合わされ、それらの事実は絶対に避けられないものとして人間に対峙する。

 この世界に生まれた人間は、世界を構成する数限りない要素のなかで生きる。人間は世界の構成要素を事実として受け入れ、それらの事実に立ち向かい、ときには事実に脅かされ、ときには事実から逃避する。あるいは逆に事実を求め、事実を享受し、失われた事実を哀惜する。個々の人間は、それぞれの世界で数限りない事実と向き合い不断に関わる。これらの事実には、個々の人間が誕生する以前から存在していたものあれば、新しく出現するものもある。この世界で人間に与えられる無数の事実は、互いに絡みあい重なり合って繁茂し、事実性の森を形作る。世界とは果てしない偶然性の海に浮かぶ事実性の森である。人間はこの世界に生まれることによって事実性の森のなかにはいる。森はどこまでも深く、人間は絶対にそこから脱出できない。

4.共同性

 世界はあらゆる事象の総体として定義される。世界を構成するいかなる要素も世界を越え出ることはできない。人間や事物を含むすべての事象は世界のなかに存在し、あらゆる出来事は世界のなかで起こる。いうまでもないことだが、世界と地球の概念は一致しない。たとえ宇宙飛行士が宇宙ロケットに乗って地球の大気圏外に飛び出したとしても世界を越え出たことにはならない。それはあくまでも世界のなかで起こる出来事であり、世界のなかに存在する事象である。あらゆる事象の総体として定義される世界は唯一であり、二つと存在しない。あらゆる事象の総体が複数存在するというのは論理矛盾である。世界はいつでも、どこでも、誰にでも妥当する普遍的世界である。

 しかしながらそのような普遍的世界は、人間が具体的に思い浮かべることはできない。人間の視野や想像力の射程は限られていて、世界が包摂するすべての事象を見渡すことはできないからである。個々の人間が生まれ住んで暮らす世界は知覚や想像のおよぼない普遍的世界ではなく、具体的で個別的な「この世界」である。人間が生まれてくるのも、人間が他の人間や事物と出会い、それらと関わるのも、つねに具体的なこの世界においてである。人間は誕生して以来この世界に住み、この世界に慣れ親しんでいる。人間が他の人間と交わり、もろもろの事物と関わり、それらと限りなく多様な関係を結びながら生きるのはこの世界である。あらゆる事象を包摂した普遍的世界という理念も、この世界のイメージを観念的操作によってどこまでも押しひろげることによって作られたものである。

 この世界は、個々の人間がおかれた環境や状況によって規定されている。その意味でこの世界は普遍的世界にたいして限局された世界である。ここで、「限局」という言葉に否定的な意味合いはいささかも込められていない。むしろ世界は限局されてはじめて個々の人間にとって現実の世界となりえる。人間は現実の世界で、好むと好まざるとにかかわらず現実の諸条件に規定されて他の人間および事物とのあいだで関係を結ぶ。

 人間がこの世界で他の人間と結ぶ関係を共同関係という。共同関係には夫婦関係、親子関係、 友人関係 組織における上司と部下の関係など、ありとあらゆる人間関係および社会関係が含まれる。人間がこの世界で互いに共同関係を結ぶのは、人間の本性にもとづいている。本性とは、生来備わっている特性である。この世界で互いに共同関係を結ぶという人間に生来備わっている特性を共同性という。

 共同性を生来の特性とする人間は、この世界で共同関係へと生まれる。人間がこの世界に生まれるとは、他の人間との共同関係にはいることである。人間同士の共同関係を基礎として共同体が形成される。共同体とは、共通の基盤のうえに成り立つ複数の人間の共同関係である。共通の基盤がなんであるかによって、多種多様な共同体が存在する。たとえば家族は性的結合、親族は婚姻関係、学校は教育、企業は経済活動をそれぞれ共通の基盤とする共同体である。人間の生活様式が複雑になるにつれて、さまざまな共通基盤をもつ共同体が形成される。共同体は家族や企業のように水平的に並存するものもあれば、市町村と県のように包含関係にあるものもあれば、小学校・中学校・高等学校のように垂直的な階層をなすものもある。人間はたいてい家族と企業、地域社会と国家など、同時に複数の共同体に属する。すべての共同体に共通しているのは、人間は共同体のなかでそれぞれの立場や役割や機能をもって他の人間と交わることである。

 この世界に生まれた人間は基本的に家族共同体で育ち、企業共同体で働き、社会共同体で生きる。人間は生まれながらにして共同体の成員であり、生涯そうであり続ける。人間がこの世界で営む活動は、すべて共同体における他の人間との関わりのなかでなされる。家庭で会話したり、喧嘩したり、和解したりするのも、会社で協議したり、交渉したり、協力したりするのも、それぞれの共同体の成員とのあいだでおこなわれる。学校で教え学ぶのは共同体によって継承された文化であり、工場で生産するのは共同体の成員が必要とする製品であり、商店で購入するのは共同体によって生産された産物である。科学者が研究論文を発表し、小説家が本を書き、画家が絵を展示するのも共同体の成員に向けてである。人間は生まれてから死ぬときまでさまざまな共同体に属し、それぞれの共同体の成員として活動する。共同体は、人間がこの世界に生まれて生涯活動する場であり、人間はこの世界に生きている限りいかなるときもなんらかの共同体に属している。

 この世界は、個々の人間がそれぞれ属する共同体によって規定される。人間がこの世界に生まれて最初に属する共同体は家族である。この世界に生まれるとは、実際には家族共同体に生まれることである。家族は性的結合を基盤とする共同体であり、生殖によって子を作り、出産によって子を生み、育児によって子を育てる。身体的にまったく無力な状態でこの世界に生まれた新生児は手厚く保護され、必要な栄養が与えられ、心身の発達が促され、言葉や知識を教えられる。幼い子供にとって家族は全世界である。無力な幼児は家族によって全面的に養護されて、「一人前の」子供に育てられる。

 子供が学齢に達すると、この世界は学校共同体に広がる。学校には幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、専門学校などがあり、それぞれ児童、生徒、学生などの身分で教育を受ける。学校では文字の読み書きや集団生活の基本的ルールから、各教科に集約された全般的教養、さらには大学の専門課程における高度な知識まで教授される。教育とは各時代の共同体が所有する文化を次世代の共同体の成員に継承させることである。教育によって人間は共同体の文化を共有するとともに共同体の成員として育成される。

 就業年齢に達した人間にとって、この世界はそれぞれ従事する業界である。人間はだれしも生計を営むためになんらかの職業に就き、特定の業界に属する。業界と一口にいっても、その内容は自動車業界、航空業界、化学業界、鉄鋼業界、出版業界、放送業界、保険業界、不動産業界など多種多様である。しかもそれぞれの業界は多数の下位業界を含んでいる。自動車業界であればエンジン、サスペンション、バッテリー、ヘッドランプ、タイヤなどの主要コンポーネントから、ネジ、バネ、ボルト、ナットなどの機械要素まで、自動車部品の種類と同じ数だけ業界が存在する。少なくとも現役で働いている者にとって、自分が身をおいている業界が最も身近な世界である。

 この世界は、それぞれの人間が活動する分野である。人間は生きている限り、職業か趣味かを問わず、いずれかの分野で活動する。一人の人間が複数の分野にわたって活動することもある。活動分野は、政治、経済、美術、音楽、文学、思想、教育、医療、福祉、娯楽、スポーツなど多岐にわたる。それぞれの分野が世界を形成し、政界、財界、経済界、芸能界、スポーツ界などと呼ばれる。さらにこれらすべての活動分野にはそれぞれ無数の下位分野がある。スポーツならば、野球、相撲、サッカー、スキー、テニスなど数多くあり、それぞれが「野球界」や「相撲界」や「サッカー界」など独自の世界を形成している。

 家族、学校、企業などすべての共同体に共通するこの世界は地域である。人間は誰しもある時代にある国のある地域に生まれる。それは大都市であるかもしれないし、地方の小都市かもしれないし、農村か漁村かもしれない。人間は必ずいずれかの地域に住みつく。この世界はそれぞれの人間が住んでいる地域の景色によって彩られている。大都市に住んでいる人間にとっては、高層ビルや地下鉄、自動車の渋滞や人々の雑踏が基本的な世界の景色である。農村に住んでいる人間にとっては、四季折々に異なる趣を見せる山を背にして広がる畑や田んぼ、漁村に住んでいるならば漁港や魚市場やそれらの上で舞う海鳥がこの世界の見慣れた景色である。都会の景色も農村の景色も、自然的要素と人工的要素との複合的な産物である。人工的要素とは地域特有の政治的、経済的、社会的、文化的、その他もろもろの要因である。これらの要因は自然との関わりをとおして歴史的に形成されたものである。自然的要素と人工的要素が複合されて地域共同体を形成している。

 限局されたこの世界としての共同体の分類はほかにも可能であろうが、肝要なのは多種多様な共同体が存在することに対応して、この世界は唯一ではなく無数に存在するということである。しかもこの世界は一人の人間においても複数ある。この世界は地域でもあれば、活動分野でもあれば、業界でもある。人間はいずれかの地域に住み、なんらかの分野で活動し、特定の業界に属しながら各々生活を営む。世界は、一人の人間のなかで居住地域や活動分野や生活環境などとして重なっている。この世界は各人が属する数だけの共同体からなり、それ自体で複層的である。


1)因果法則はもともと自然の側ではなく人間の側にある。それゆえ人間が自然を因果法則にもとづいて特定の原因と結果で把握しようとしても、自然の側では特定の原因と結果が結びつくようにはなっていない。古今東西の哲学者が因果法則について喧々諤々の議論を戦わせてきたのは、世界が因果的に成立していること自体は確からしく思えるにもかかわらず、世界の事象を特定の原因と結果で把握しようとするとにわかに困難を帯びるからである。それは「原因」と「結果」が自然の要素ではなく概念であり、したがって人間の頭のなかにのみあることに起因している。それは、自然界にいかに多くの動物や植物や鉱物や天体が確固として存在していようとも、「実体」という概念は自然そのもののなかには存在しないのと同じである。因果法則は人間が自然の多様性を整理するためにつくられたものである。整理の仕方がそれぞれの人間の考え方によって異なれば、原因と結果についての理解も異なるのは当然である。自然の多様性を整理する仕方は、アリストテレスの原因論、デカルトの機械論、スピノザの決定論、ライプニッツの観念論、ヒュームの経験論、カントの超越論的観念論などさまざまある。たとえばヒュームは「原因」と「結果」が自然のなかにはない点に着目して因果法則を単なる「観念連合」として否定したのにたいして、カントは「原因」と「結果」が人間の頭のなかにある点に着目して因果法則を「純粋悟性概念」によって基礎づけた。


   
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