第５章 時間論的視点
第１節 未来
1．人間はいかにして現在を超え出るか
主体論的視点からの考察（第3章）で、人間は企図において現在の枠内にとどまっていないこと、人間は目的を設定することによって現在を越え出ること、むしろ人間は現在を越え出ることによってのみ目的を設定できることが示された。それと同時に「人間はいかにして現在を超え出ることができるのか。人間が現在を超え出ることができるのはなぜなか。現在を超え出ることは人間のいかなる構造にもとづいているのか」という問いが立てられ、その検討は時間論的考察まで保留された。以下の考察では「人間はいかにして現在を超え出るか」というテーマについて時間論的視点から検討する。
目的を設定することでめざされているのは、人間が価値あると認めながら現在は所有していないものを未来において目的を達成した成果として所有することである。目的は主体としての人間が客体（自然、現実）との関りにおいてその能力を発揮した成果として達成される。目的を達成するプロセスは、目的を達成した成果をまだ所有していない状態からそれを所有した状態へと移行する過程である。このプロセスを開始するためには、なによりもまず未来に向けて目的を立てる必要がある。だが、「未来に向けて目的を立てる」というとき、この言表の意味するところを正確に理解しようとすると、すぐさま二つの根本的な疑問がわきおこる。それは、(1)そもそも未来とはなにか、（２）未来はどのように存在するか、である。
（１）そもそも未来とはなにか
「そもそも未来とはなにか」と問う場合に、確実にいえるのは未来は空間的な場所ではないということである。もし未来が空間的な場所であるならば、それはこの世界のどこかにあって、そこへ行くことができるはずである。たとえ体ごと行けないまでも、頭のなかに思い浮かべることはできるはずである。しかしこの世界の空間のなかにそのような場所はどこにもなく、実際に行くことも、頭のなかに思い浮かべることもできない。未来を空間的な場所として考えるのは、未来というものを空間に仮託することである。未来を空間に仮託するとは、未来を空間的な要素として表象することである。しかし未来を点や線や面、その他いかなる空間的要素として表象しようとも、それらは未来とはまったく無縁であるということが明らかになるだけである。未来を空間的な場所として考えようとすればするほど、未来はそのようなものではないという確信が強まるばかりである。
では、未来を場所ではなく、方向と考えたらどうか。たしかに未来という場所はどこにもないが、「未来に向けて」という言葉が暗に示すように未来の方向はあるのではないか。これは未来を場所として明示しないだけ無難かもしれないが、やはり未来が空間に仮託されていることには変わりがない。なぜなら方向というとき、たとえば「富士山の方向」というように、空間における到着地点と、そこに到達するまでの経路が表象されているからである。たとえ到着地点と経路が具体的に思い浮かべられないとしても、「方向」という言葉で空間的経路が漠然と表象されていることに変わりはない。したがって方向としての未来も場所のバリエーションにすぎない。
それでは、未来を特定の場所でも、場所を曖昧化した方向でもなく、時間区分といいかえたらどうか。つまり未来を空間ではなく、現在や過去と異なる時間区分として考えるのである。しかし、時間区分としての未来を具体的に表象しようとしたら、現在と仕切られた平面的な区画か立体的な箱のようなものを思い浮かべるほかはなく、これもつまるところ空間の一形態である。区画や箱のように面積や体積のあるものではなく、過去と現在を結ぶ一本の直線の上に表象したらどうか。線には平面のように面積もなければ、立体のように体積もないので空間とは一線を画している。しかしたとえ面積や体積はなくとも長さはある。未来を直線で表象するのは、時間区分としての過去と現在と未来にそれぞれ一定の長さを割り当てることである。このような時間区分が結局は空間的要素に帰着し、したがって未来と無縁であることは火を見るより明らかである。
以上の検討から確かにいえることが二つある。一つは、未来は空間における場所や方向や区画、その他いかなる空間的要素とも無縁であること。もう一つは、それにもかかわらず未来を空間的なものとして表象するのはどうやら避けられないらしいことである。未来を空間的なものとして表象することが避けられないとは、未来はどのようなものとしてであれ了解されていることを含意している。未来がなにものとしても了解されていないとしたら、未来を空間的に表象しようとすること自体起こりえない。人間は未来をなんらかのかたちで了解しているからこそ、それを具体的に表象しようとして空間に仮託するのである。未来が了解されている限り、未来はたとえ空間のなかでなくともあるはずである。実際、未来は人間によって了解されており、未来というものがあることは実感され、日常生活の場面でも頻繁に語られている。未来はことほどさように人間にとって近しいものであり、暦や時計が発明される前から語られてきた。それどころか未来は人類が「時間」の観念を持つようになる以前から了解されてきたのである。
未来の了解が最も際立つのは企図においてである。企図とは目的を設定し、その実現を追求する一連の行為をいう。およそ意図的な活動はすべて目的を設定することのうえに成り立っている。目的の規模や種類を問わず、日常生活のあらゆる場面で目的が設定されている。たとえば会社に行くために駅に向かって通りを歩き、庭木に水を撒くために納戸からホースを取り出し、テーブルの上の醤油を取るために手を伸ばす。こうした日常生活おいてなされるすべての行為で目的が設定される。目的として設定されるものは、現在所有していないものである。現在所有していない限りで、欠乏の状態にある。欠乏に動機づけられて現在所有していないものを未来において手に入れようとして目的を設定する。
目的を設定するとき、すでに現在の時点で目的とするものを価値があると認めている。目的とされるものの価値を保証するのは、達成された目的の仮想的享受である。仮想的享受によって目的とされるものが価値あるものであることが保証され、そのものを目的として設定することが正当化される。たとえば子供は目当てのゲームソフトを現在は所有していないが、それを使ってゲームする楽しさを想像によって仮想的に享受し、それによってゲームソフトが自分にとって価値のあることを認識する。この認識にもとづいてゲームソフトを手に入れることが必要かつ適切なことであると判断され、目的として設定される。未来における目的達成の成果が現在に先取りされて、目的が未来に向けて設定されるのである。未来に向けて目的を設定すると同時に、未来における目的達成の成果を現在に先取りすることによって、人間は現在と未来のあいだを行き来している。目的を設定することにおいて未来へと踏み出し、未来で目的が達成された成果を先取りすることにおいて現在へと戻る。未来はこの現在との往来のなかにある。未来は、目的を設定することにより、その目的の実現を追求する一連のプロセスにおいて、絶えず現在と行き来しながら明瞭に了解されている。
目的の設定は企図の一環として遂行される。企図において人間は現在と、現在ではない未来とのあいだで絶えず行き来する。未来は現在と密接に関連しながら、しかし現在ではないものとして了解されている。目的とされるものを所有していないのは現在であり、それを手に入れるのは現在ではない未来である。目的を設定するのは現在であり、目的が設定されるのは現在ではない未来に向けてである。目的が達成されてその成果を享受するのは現在ではない未来であるが、未来に約束された享受を先取りして仮想的に享受するのは現在である。このように企図において現在と未来とのあいだを行き来することによって、現在を超え出るのである。
すでに見たように、未来は空間的な場所や方向や区画とはまったくあいいれない。そもそも空間的な場所や方向や区画は人間の外に目に見える形で存在するが、企図において了解されている未来は人間の外にはなく人間の内にしかない。未来は、企図において目的を設定し、その目的を達成するプロセスと不可分に了解されている。この了解において未来は企図の内容によって、すなわち設定された目的と、その目的を達成した成果と、その成果を先取りした享受によって満たされている。このように充実した未来の了解に空間的要素が入る隙間はない。逆に企図を離れて未来を表象しようとしたら、未来は企図の内容によって満たされることがないため空虚である。企図の内容によって満たされないまま未来を表象しようとするならば、未来は空虚であるほかはなく、空虚なものとして表象された未来の観念が頭の中で空虚な空間の表象に移行するのはごく自然なことである。
（２）未来はどのように存在するか
企図の内容によって満たされた未来、すなわち現在との往来で了解されている未来は、人間の外にはなく人間の内にしかない。では未来は人間の内にどのように存在しているのか。目的を設定するさいに前提とされているのは、その目的がまだ実現されていないことである。たとえば画家がある主題で絵を描こうとするとき、その絵はまだ完成していないことが前提となっている。このとき絵はまだ完成していないが、画家の頭のなかでは完成した絵の概略的なイメージがある。その概略的なイメージが目的として設定されて、制作の過程で構図や色と形で具象化されていく。未来において完成する絵は、制作を開始した時点では「まだ完成していない」（未完）ものとして了解されている。目的とされるものが絵のような制作物でなく、たとえば荷物の運搬などの業務であるならば、その業務が完了するまでは目的は「まだ完了していない」（未了）ものとして了解されている。あるいは野球やサッカーなどの競技で優勝を目標として掲げる場合、その実際に優勝するまで目的は「まだ達成していない」（未達）ものとして了解されている。制作、業務、競技のいずれにおいても設定された目的はまだ完成せず、完了せず、もしくは達成されていない。この目的が未完、未了、未達であることに共通している事態の本質的特徴は、目的として設定されたものが現在存在しないことである。ここで、現在存在しないことは「いまある」という概念への参照において「まだない」として言語化される。「まだない」ことの了解は、「いまある」ことの了解と対比して形成される。つまり目的の未完、未了、未達の事態の了解は、「いまある」という概念と対比して「まだない」という概念として言語化されるのである。
ここに見るように、「まだない」という概念の形成で参照されるのは「いまある」という概念である。「いまある」の「いま」は、時間区分として見れば現在である。現在は字義どおりに解すれば「現に在る」ことである。「現」は「出現」、「示現」、「顕現」などの言葉に用いられているように現れることを意味する。したがって現在とは本来「現れて在る」ことを意味する。現れて在るとは、在ることへと立ち現れることである。あるものが在ることへと立ち現れることによって存在が起こる。現れて在ることとして存在が起こるところが「いま」である。存在が起こるところとしての「いま」を時間的に様態化された現在と区別して表すために＜いま＞と表記する。山括弧に入れたのは、自我論的考察において言語以前の自分を＜じぶん＞と表記したように「いま」の言語以前の了解内容であることを示している。具体的にいえば、＜いま＞は日本語で「いま」、中国語で"xiànzài"、韓国語で""jigeum"、英語で"now"、ドイツ語で"jetzt"、フランス語で"maintenant"、その他の言語でそれぞれの言葉で表される以前の現在の了解内容である。各言語によりさまざまな言葉で表されるにもかかわらず、非言語的な現在としての＜いま＞は、異なる言語を用いるすべての人間に共通する存在の本質的特徴である。このすべての人間に共通する＜いま＞は、あるものが存在することへと立ち現れるところである。ここで「ところ」という言葉は、＜いま＞が概念化されない了解であることに対応して、時間的概念としての時ではなく、さらに空間的概念としての場でもないものとして用いられている。
言語以前の＜いま＞は、事物が存在へと立ち現れるところである。事物が存在することは＜いま＞において起こる。この言語以前の＜いま＞が言語化されて「いま」として了解され、さらに言語化された「いま」が時間的に様態化されて時間区分としての「現在」となる。 言語以前の＜いま＞が「いま」として言語化されるためには、本質把握とそれにもとづく概念化のプロセスを経る必要がある。＜いま＞は、事物の存在が起こるところとしてすべての存在に共通している本質的特徴である。この本質的特徴が、「いま」という時間的様態を表す言葉で概念化されるためには、「いま」以外の時間的様態を表す言葉が参照されなければならない。なぜなら言語以前の＜いま＞は、時間的様態を表す他の言葉と対比されてはじめて「いま」として言語化されるからである。「いま」と対比される時間的様態を表す言葉とは「まだ」、「もう」、「すでに」、「かつて」などである。言語以前の＜いま＞が時間的様態を表す言葉を参照し、それらとの区別において「いま」という言葉で概念化されることによって存在することは「いまある」こととして言語化されるのである。
事物が存在する仕方を存在様態と呼ぶ。存在様態は存在そのものではなく、本質的特徴として了解された存在の仕方である。存在様態は人間の認識に受け止められた存在の仕方であり、根本的に人間の認識構造によって規定されている。人間の認識にたいして事物はさまざまな現れ方で存在する。すべての存在に共通して「いまある」こととして了解される存在の仕方を、「現に存在する」という意味で現在性と呼ぶ。事物が「いまある」という存在の本質的特徴において把握されるとき、その事物は「いまある」ものである。事物が「いまある」ものであるとは、その事物が現在性の存在様態で存在することである。
時間的様態を表す「いま」の了解内容は、言語以前の＜いま＞に由来する。＜いま＞は、事物が存在へと立ち現れて存在が起こるところであり、この言語以前の＜いま＞を起源として時間的様態である「いま」が生じ、そこから時間的概念である「現在」が派生する。時間的様態としての「いま」は現在性の存在様態の本質的特徴である。存在するとは「いまある」ことであり、「いまある」とは現在性の存在様態で存在することである。
さまざまな事物が共通して「まだない」という本質的特徴において把握されるとき、その事物は「まだない」ものである。事物が「いまある」ものとして了解される存在の仕方を現在性と呼ぶのに対応して、事物が「まだない」ものとして了解される存在の仕方を「未だ存在しない」という意味で未在性と呼ぶ。未在性において了解される存在の仕方を未在性の存在様態という。事物が「まだない」ものであるとは、事物が未在性の存在様態で存在することである。未来に向けて設定される目的はまだ実現されていないものであるから「まだない」ものとして了解される。つまり、目的は未在性において了解される。
了解は人間の心の働きであり、心が働くのは現在であるから、事物は現在性において了解される場合も未在性において了解される場合も、そのつど了解されたものとして現在に存在する。未来に向けて設定された目的は未在性において了解されており、そのように了解されている限りで未在性の存在様態で現在に存在する。ここにいたって、「未来に向けて目的を設定する」というとき、「未来」という言葉で了解されているのは未在性の存在様態であることが明らかとなる。すなわち、未来とは未在性の存在様態であり、未来に向けて目的を設定するとは、目的を未在性の存在様態として現在に存在させることである。
目の前の事物が「いまある」ものとして了解されるのは、人間の認識にたいして事物が「いまある」ものとして現れるからである。「いまある」ものは現在性の存在様態で存在する。人間の認識構造において現在性の存在様態に対応する心の働きは知覚である。知覚は感覚に与えられた所与を特定のものとして把握する心の働きである。知覚されたものは「いまある」ものとして現在性の存在様態で認識される。事物は知覚されることによって「いまある」ものという存在様態で存在する。この文脈で知覚を定義するならば、知覚とは事物を現在性の存在様態で認識する心の働きである。認識において現在性の存在様態に対応する心の働きは知覚であり、未在性の存在様態に対応する心の働きは予期である。 知覚によって「いまある」ものが現在性の存在様態で存在し、予期によって「まだない」ものが未在性の存在様態で存在する。知覚も予期も現在における心の働きであり、現在性の存在様態も未在性の存在様態も人間の認識構造に規定された存在の仕方である。
人間の認識構造に規定されて予期は知覚と結びついて絶えず「まだない」ものを志向している。予期が知覚と結びついていることは、日常生活のあらゆる場面で確認できる。たとえば道を歩いているとさまざまな建物や看板や電柱が知覚されるが、このとき視界にはいる限りの多様な事物が次第に接近してくるのを時々刻々と予期している。接近の予期が連続的に実現されることをとおして、自分が前方に向かって歩いていること、それによってまた目標地点に向かっていることを確信する。前からスマホを見ながらやってくる歩行者を見れば、そのまま進むとぶつかることを予期してこちらの方からよける。この場合は時間的な余裕があるが、建物のかげからオートバイが飛び出してきたときなどは、瞬時にぶつかることを予期して身をかわす。上着のポケットに手を入れるのは、そこに財布があり、財布のなかには数枚の紙幣と小銭がはいっていることを予期しているからである。予期に反して上着のポケットに財布がはいっていなかったり、財布のなかに紙幣がはいっていなければ驚くが、その驚きはかえって自分がつねにそのように予期して行動していたことを気づかせる。日常生活において知覚はつねに予期を伴い、予期にもとづいてすべての行為がなされるのである。
日常生活であらゆる行為は知覚と予期にもとづいてなされるが、それは知覚そのものが予期と結びついて成立していることを基礎としている。たとえば光が規則的な周期で点滅するのを知覚する場合、光が消灯したあと周期的な時間が経過すれば点灯することが予期されている。だから光が予期されたとおりに点灯しなければ意外に感じられる。この意外感は予期したことが実現しなかった結果である。意外感が生じる前提として、光の点灯と消灯という感覚情報が綜合されて光の周期的な点滅という連続的な知覚が形成される。この連続的な知覚にもとづいて、消灯のあとに点灯することが「まだない」こととして予期される。この予期が現在の知覚となって実現されているあいだは周期的な点滅という連続的知覚は維持される。が、点灯すると予期されたときに点灯が起こらなかった瞬間に連続的知覚は途絶える。しかしたとえ周期的点滅という連続的知覚は途絶えても、連続的知覚そのものは消滅しない。周期的な点灯が途絶えると同時に消灯した状態が続くことが予期されて、新たに消灯した状態の連続的知覚が生じる。つまり知覚はそのときどきに絶えず「まだない」ことを予期することによって連続的知覚として形成される。知覚と予期はそれぞれ独立した認識能力ではない。自然は連続しており、自然を認識する手段として発生した知覚は予期（および後述する想起）を内包した連続的知覚としてのみ成立する。
２．未来は可能性である
企図において目的を設定するとは、目的を達成した状態もしくはその成果を所有した状態を先取りすることである。この場合、目的は「まだない」という未在性において先取りされて享受されている。それは現在における十全な享受ではなく、目的を達成した結果として約束された享受である。目的を設定する時点で目的はまだ達成されていないが、約束された享受において仮想的に達成されている。目的が仮想的に達成されるとは、目的が現実に達成される見込みがあることを意味する。目的が現実には実現していないが、実現する見込みがあること、つまり「まだない」ものが「いまある」ものとなりえることを可能性という。 これにたいして「まだない」ものが「いまある」ものとして現実に実現されていることを現実性という。
目的を設定する時点で仮想的に達成された目的は、それが実現する可能性において了解される。このとき目的として設定されるものはそれが実現する可能性において開示されている。未在性の存在様態の「まだない」ものは、現在性の存在様態の「いまある」ものではないが、「いまある」ものとなる可能性において了解されている。そもそも「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性において了解されているのでなければ、たとえば「まだない」ものが「いまある」ものとして現実に実現されている場合は、それが達成すべき目的として設定されることはない。あるものが目的として設定されるのは、それが「まだない」という未在性において了解されていると同時に、「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性において了解されているからである。
「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性の度合いを蓋然性という。蓋然性は現実の諸条件に応じてさまざまな度合いがあり、それに対応する心の働きも「予感」や「期待」から「予想」や「確信」にいたるまで幅がある。たとえば通勤のために電車の駅に向かって歩いているとき、通勤路の先に駅が存在することを予期している。このとき駅は「まだない」という未在性において開示され、「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性において予期されている。通勤は毎日繰り返される活動であるから、まだ視界にはいっていないが駅が存在する蓋然性はきわめて高い。この場合予期は「期待」や「予想」の段階を越えて「確信」となっている。しかしたとえ確信といえども、駅が知覚されて「いまある」ものとして現在性の存在様態で存在するまでは、「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性の枠内にある。
事物の本質をその機能性において把握するとき、人間は当の事物が発揮できる機能の可能性を了解している。ある事物の機能性を理解するとは、事物をその可能性において了解することである。ここでいう可能性は、事物がその機能を発揮して所期の成果をもたらすことができることである。それゆえ機能性は、事物が有する特定の機能を発揮する可能性といいかえることができる。事物の機能性が把握されるとは、その事物の機能が可能性において了解されることである。鉛筆削りを例にとれば、機能性において定義された鉛筆削りの本質は「鉛筆を削るためのもの」である。鉛筆削りの機能性は「鉛筆を削ることができる」という可能性である。鉛筆削りの本質が把握されるとは、鉛筆削りがその可能性において了解されることである。
事物はその具体的な現実性において、その事物の可能性が了解されている。事物をその可能性において了解するとは、事物を「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性において了解することである。つまり事物は人間の認識に与えられたままの形態で、その機能が発揮された状態が先取りされている。この場合、目の前にある事物は現実性において与えられていると同時に、その可能性において開示される。事物はその具体的な現実性において、つまり人間の認識に与えられるままの形態で、それぞれの可能性において了解されている。鉛筆削りがその機能を発揮することによって鉛筆が削られた状態は「まだない」。その状態は実際に鉛筆削りを使って鉛筆を削った時点で出現する。しかし、目の前にある事物が鉛筆削りとして了解されているとき、鉛筆削りはその機能性において了解されると同時に、「まだない」状態が「いまある」状態となる可能性において了解されている。「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性において、人間は目の前に見ている事物の範囲を越え出る。
先に人間は企図において現在と未来のあいだを行き来することによって現在を超え出ると述べたが、それは人間が事物を可能性において把握することにもとづいている。企図において目的を設定するのは、人間が価値あると認めながら現在は所有していないものを未来において所有するためである。目的を設定するためには、目的とされるものが未来において達成される可能性のあることが了解されていることが前提となる。つまり目的とされるものは現在は「まだない」が、同時にそれは「いまある」ものとなる可能性において了解されていなければならない。企図において目的を設定することは、目の前の事物をその可能性へと超え出る人間の認識構造にもとづいている。
可能性とは、「まだない」ものが「いまある」ものとなりえることである。「まだない」ものは、未在性の存在様態で存在する。未在性は「まだない」ことであり、それ自体において「いまある」ことになる可能性を内包している。しかし未在性が内包する可能性は、「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性に限られない。未在性に伴う可能性は、「まだない」ものが「いまある」ものとならない可能性も含んでいる。可能性はおよそ可能性であるためには、「まだない」ものが「いまある」ものとして実現する可能性だけでなく、実現しない可能性をも含んでいなければならない。もし「まだない」ものが「いまある」ものとならない可能性が最初から排除されていたとしたら、「まだない」ものは確実に「いまある」ものとなるだろう。しかし「まだない」ものが確実に「いまある」ものになるのであれば、「まだない」ものと「いまある」ものは直結していることになる。その場合には「まだない」ものはそれ自体が「いまある」ものであり、そこに可能性がはいる余地はない。未在性の了解は可能性において開示されるが、そこには「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性と同時に、「まだない」ものが「いまある」ものとならない可能性も含まれている。つまり可能性はそれ自体において実現する可能性と実現しない可能性を含んでいる。さもなければそれは可能性ではなく、可能性がすでに「いまある」ものとして実現している現実性である。可能性は言葉の真の意味で可能性である限り、「まだない」ものが「いまある」ものとなる可能性だけでなく、「まだない」ものが「いまある」ものとならない可能性も含んでいる。
「まだない」という了解は「いまある」という了解を参照している。「まだない」ものは、「いまある」ものへの参照において了解される。「まだない」ものは「まだない」という未在性の存在様態で存在する。未在性の存在様態を生み出す心の働きは予期である。予期は「まだない」ものを未在性の存在様態で存在させると同時に、「まだない」ものをそれが「いまある」ものとなる可能性もしくはそうならない可能性において了解する。予期の本質は、そのつど「いまある」ものとして実現されている現実性の範囲を越え出ることにある。「いまある」ことの了解は、それ自体において「まだない」という未在性の了解と、それが「いまある」ものとして実現する可能性もしくは実現しない可能性の了解を内包している。人間は予期によって現在性の了解において未在性へと越え出ているのである。
人間は企図において「いまある」現実を「まだない」未来へと越え出る。およそ企図が可能であるのは、人間が現実性において与えられた状況を可能性において受け止めるからである。与えられた状況を可能性において受け止めるとは、現に与えられた状況が絶えず変化していることを認識し、それにもとづいて変化した状況を先取りすることである。身の回りの状況は絶えず変化しており、生きていくためには状況の変化を認識して適切に対処しなければならない。そもそも予期という認識能力が生まれたのは、変化する状況を把握するためである。周囲の状況を探知して把握するためには知覚が必要であるが、状況の変化を先取りして行動につなげるためには予期が必要である。人間は周囲の状況を知覚すると同時に、不断の予期によって現在を可能性へと越え出ているのである。
以上の考察によって、未来は可能性において了解された未在性の存在様態として存在することが明らかになる。可能性において了解された未在性とは、「いまある」ものとなる（もしくはならない）可能性を内包した「まだない」ことの了解である。この了解を生み出す心の働きは予期である。予期によって認識は「いまある」ものにおいて、この「いまある」ものを越え出て「まだない」ものを表象する。しかし予期が現在における心の働きである以上、予期の内容も、それに刻印された未在性の了解もこの現在に生じている。すなわち未来はその本質において現在の枠から一歩も出るものではない。このことは未来は未来に存在するのではなく、未在性の存在様態として現在にのみ存在することを意味する。それはとりもなおさず、未来は未来自体としては存在しないということである。