第５章 時間論的視点
第２節 過去
１．過去は存在するか
前節の考察によって、未来は未来自体としては存在せず、可能性において了解された未在性の存在様態として現在にのみ存在することが明らかになった。未来が存在しないならば、過去はどうか。これからどうなるかわからない未来とは異なり、過去は厳然と存在しているのではないか。そもそも現在あるものはすべて突然出現したのではなく、過去から引き続いて存在している。たとえば机の上にある本は私が1週間前に近所の書店で購入したものであり、それまでは書店の棚に並べられていた。その前は取次業者の倉庫に積まれており、さらにその前は製本会社の工場におかれていた。このような遡及のプロセスは、製本工程、印刷工程、編集作業、著述、さらに著述のための調査や資料集めなど、およそ1冊の本が成立するまでの因果連関をどこまでもたどることができる。本の素材である紙ひとつとっても、製紙工程、その材料となるパルプ、パルプの原料となる木材、その木材を生み出す森林、さらに森林が形成される過程とはてしなく過去にさかのぼる。このように目の前にあるどんな事物も、限りない因果連関を経て成立している。そうだとすれば、過去の存在は確実このうえなく、否定のしようがないのではないか。
たしかに現在存在するものはすべて過去の結果である。過去は現在が存在するために不可欠な前提であり、過去がなければ現在は存在しない。しかしながら現在が過去の結果であるという一事をもってただちに過去が存在すると結論づけることはできない。なぜなら現在が過去の結果であるということと、過去が存在するということは必ずしもイコールではないからである。現在存在するものは「いまある」のにたいして、過去は「いまある」ものではない。あるものが「いまある」のは現在においてである。字義どおりに解釈すれば現在は「現に在る」ことであり、過去は「過ぎ去った」ことである。このことからも両者の違いは歴然としている。少なくとも過去は現在が存在するようには存在しない。しかしながら過去が過ぎ去ったことだとすれば、いかにして現在は過去とつながっているのか。現在は過去の結果であるということができるのは、現在が過去とつながっているからだろう。もし現在と過去が断絶していたら、過去は過去で完結し、過去の結果が現在であるということはありえない。現在が過去の結果であるためには、過去は過ぎ去りながらも現在と断絶することなくつながっているのでなければならない。現在がなんらかの仕方で過去とつながっているのでなければ、現在存在しているものが過去から継続することは不可能である。だが、現在はどのようにして過去とつながっているのだろうか。あるいは過去は過ぎ去りながら、いかにして現在を生み出すのか。
現在と過去のつながりを探る最初の手掛かりとなるのは記憶である。およそ過去について考察しようとするときに確実にいえるおそらく唯一のことは、「過去は記憶として存在する」ということである。なぜなら人間のなかに過去の記憶があることは、誰にも疑うことができないからである。私は目の前にある本を1週間前に書店で購入したことを記憶している。ここで1週間前が正確には8日前であったかもしれないということは問題にならない。重要なのは記憶内容の正確さではなく、私のなかに過去の記憶があるという事実である。過去の記憶がある以上、過去が存在することはまちがいない。なぜなら記憶された過去がある以上、現在とは異なる過去というものが存在するはずだからである。だが、一歩立ち止まってこの推論を吟味すると、記憶があることをもって過去が存在すると結論づけるのは拙速に思える。まず、この推論では「記憶された過去がある」ことが前提とされているが、記憶されているのは過去ではなく過去に体験した出来事ではないか。つまり過去そのものが記憶されているのではないだろう。だから「記憶された過去がある」というかわりに、正しくは「記憶された過去の体験がある」または「過去の体験の記憶がある」というべきであろう。しかしまた、本当に過去の体験の記憶は存在しているのか。記憶が存在するとは、記憶が想起されることから推定されたことではないか。だとしたら過去の体験の記憶があるとというかわりに、正確には過去の体験の記憶が想起されるというべきだろう。そこで推論の前提部を修正して書きなおせば「過去の体験の記憶が想起される以上、現在とは異なる過去が存在する」ということになる。この推論そのものが正しいかどうかを検証するためには、検証作業の出発点としてこの命題を構成している「記憶」、「想起」、「過去」、「存在」という概念がそれぞれなんであるかが明確にされなければならない。さもなければこれらの概念を使ってなにごとかを語ること自体無意味な贅言とならざるをえない。そこで以下では、(1)記憶とはなにか、(２）想起とはなにか、（３）過去とはなんであるか、（４）過去が存在するとはどういうこと、について吟味する。
(1)記憶とはなにか
ここでは記憶を人間が体験したことを情報として保持しておく心の働きと定義する。体験の内容を記憶に保存することを記銘という。記銘には意図的な記銘と非意図的な記銘がある。受験勉強で英単語の意味や綴りを必死に覚えようとするのは意図的な記銘である。これにたいして意図的に記憶しようとしたわけではないのに過ぎたことを覚えているのは非意図的な記銘による。たとえば昨日の夕食のメニューは特に覚えようとしたわけではないが思い出すことができる。それは昨晩食べたものが非意図的な記銘によって記憶に保存されているからである。日常生活における記憶の大部分は非意図的な記銘によって形成されている。
記銘と記憶の心の働きを図書館のカードケースにたとえれば、人間が体験したことは意図的もしくは非意図的な記銘により記憶としてカードに記入される。記憶が記入されたカードは記憶のコード番号に従ってそれぞれ対応するカードケースに入れられる。カードケースは縦横に仕切られたカードケース棚に収容されている。普段はすべての棚に意識の光が当てられているわけではなく、意図的な想起において関心が向けられた段に光が当てられて、カードケースから必要な記憶カードが取り出される。意識の光はサーチライトのように照射する範囲が限られており、中心部は明るく照らされるが、その周縁部は中心から離れるにつれて暗くなる。意識の照明から完全に離れると、棚は光の陰に隠れて見えなくなる。それらの棚は意識されていないという意味で「無意識」と呼んでもいい。といっても無意識は意識と切り離された領域ではない。むしろ無意識は焦点化されない意識と解すべきである。人間の心は、意識のサーチライトに照らし出されるほんの一点を除けばすべて意識されない心的領域である。しかしそうした無意識の心的領域も意識の光に照らされればたちどころに顕在化する。サーチライトが通過したあと、記憶は再び無意識の心的領域に姿を隠す。このように意識と無意識の心的領域は明確な境界によって断絶したものではなく相互に連続しており、意識が無意識になることもあれば、無意識が意識に転じることもある。その意味では、無意識も「無意識」という名前の意識作用もしくは意識活動であるといえる。人間は意識生活の大部分を無意識の状態で送っているのである。ここでカードケース棚を脳、カードケースをニューロン、カードケースに入れた記憶カードを神経回路とおきかえてもよい。だが、本論で対象とするのは記憶の生理学的構造ではなく、あくまでも心の働きとしての記憶である。それゆえ以下の考察でも、もっぱら心の働きとしての記憶に焦点を当てる。
記憶は記憶の作用と記憶される内容に区別される。といっても両者はそれぞれ独立して存在するものではない。記憶する心の働きがなければ記憶の内容は形成されないし、記憶の内容を伴わない記憶の作用はありえない。記憶は心の働きであり、すべての心の働きは意識の＜能動＝受動関係＞を基本構造としている。能動的意識はつねに受動的意識において発現するという意識の原則は、記憶にも当てはまる。すなわち、能動的意識として記憶する心の働きは、つねに受動的意識として記憶される内容のなかでのみ発揮される。記憶が成り立つためには、記憶する心の働きにおいて、そのつど記憶される内容が与えられていなければならない。しかしまた記憶の作用がなければ記憶そのものが成立しない。すべての心の働きが能動的意識と受動的意識が一体となることによって成立するように、記憶は記憶する心の働きと記憶された内容が一体となってはじめて存在する。
(２）想起とはなにか
記憶は人間が体験した内容が情報として保存されたものであるが、保存されたままの状態では顕在化していない。顕在化とは、記憶された内容が意識に出現することである。記憶された内容を意識に出現させることを想起という。記憶のインプットである記銘に意図的な記銘と非意図的な記銘があることに対応して、記憶のアウトプットである想起にも意図的な想起と非意図的な想起がある。意図的な想起は、意図して思い出すことである。たとえば英語の試験で、一夜漬けで覚えた英単語の意味を思い出そうとする場合である。非意図的な想起は、意図せずに過去の体験が想起されることである。たとえばある地名を聞いて、ふとそこを訪れたときの光景がよみがえる。意図的に記銘されたことは意図的に想起され、非意図的に記銘されたことは非意図的に想起されるという図式は成り立たない。子供のころ意図的に覚えた童謡の歌詞が大人になってふと口をついて出ることもあれば、非意図的に記銘された過去の体験を、なんらかの必要に迫られて思い出そうとすることもある。
人間の体験は認識によって先導され、認識は知覚を基礎としている。すべての体験や認識が想起を伴うのは、事物の知覚そのものが想起を伴うことによって成立しているからである。事物の知覚において、知覚された内容は瞬時にして消え去ることなく記憶に保存される。時々刻々と進行する現在の知覚に、たったいま記憶された知覚が想起されて連続的な知覚が形成される。たとえば道路を走る車を知覚する場合、知覚は車が道路上を直進する様子を連続的に捉えるが、それが可能なのは、現在の瞬間まで車が連続的に直進してきたことが記憶され、それが想起されているからである。あるいは危険を知らせるブザーの一様な音が鳴っているのが聞こえたとき、ブザーが鳴っていると認識できるのは、直前に聞いて記憶された音が想起されて現在の音の知覚に連なるからである。現在の知覚に想起された直前の知覚が連なることによって連続的知覚が形成される。直前の知覚が想起されないと仮定したら、ブザーの音が鼓膜を振動させた一瞬しか知覚されないことになる。しかしこのような仮定は立てることができない。なぜならそもそも知覚は周囲の環境を認識するために生じたのであり、周囲の環境が一瞬で消滅することなく継続して存在している以上、それに対応して知覚も連続的であるほかはないからである。
知覚が連続的知覚としてのみ成立することは、静止している事物を知覚する場合にも当てはまる。身の回りにあるすべての事物は過去から継続して存在していることが想起されて了解されている。この了解は、突然めあたらしいものが出現することによって逆照射される。たとえば机のうえに花束があるのを見て、それはついさきほどまでなかったと認識するとき、同時に花束を載せている机や、そのうえおかれている時計や本は、花束が出現する以前からもそこにあったと了解されている。このように了解するとき、それらの事物は従前から存在していたことが想起されているのである。
具体的な認識の場面で事物が全面的に知覚され、そのすべて記憶され、それらの記憶が完全に想起されることはない。実際に人間が事物について知覚するのは身体の向きに規定されたごく一部である。街中の道路を歩いていて、知覚されるのは身体の前方にあるものだけで、側方にあるものは部分的にのみ知覚され、後方にあるものはまったく知覚されない。前方にあるものでも知覚されるのは、そのつど顔を向けた方向の視野角にはいるものだけである。さらに知覚されたもののうち記憶されるのはごく一部にすぎない。仮に人間が遭遇する事物を全面的に知覚するとしたら、莫大な情報量によって知覚はただちにフリーズするだろうし、知覚したものをすべて記憶するとしたら記憶はたちまちパンクしてしまうだろう。また、記憶された知覚もすべてが想起されるわけではない。記憶された知覚のうち意図的もしくは非意図的に想起されるのは、そのときどきの関心に応じて認識が成立するのに必要な記憶である。知覚も記憶も想起も、身体の向きや関心によって制約されている。事物の認識は、このような制約のもとで知覚され、記憶され、記憶された知覚が想起されることによって成立する。
体験は主体としての人間が客体としての事象と関わることである。事象とは、人間同士、事物同士、および人間と事物のあいだで織りなすすべての関係や出来事である。事象との関わりにおいて関心の対象となるものを把握する心の働きが認識である。認識は、関心の対象となる事物を知覚し、知覚された内容を記憶し、記憶された内容を想起することによって成立する。知覚は自然を認識する手段として意識の発生とともに生じた。絶えず転変する自然を認識するためには、事物を時々刻々と知覚しながら記憶された知覚を連続的に想起することによって、現実に対応して連続的に変化する知覚を生み出すことが必要なのである。
（３）過去とはなんであるか
過去とはなんであるか。この問いに答えるためには、さしあたり「過去」という言葉で理解されているものを明確にする必要がある。日常生活で「過去」という言葉は非常に多義的に使われている。
第一に、過去は過去の体験を指す言葉として用いられる。たとえば「暗い過去が思い出される」というとき、過去そのものが暗いのではなく過去における苛酷な体験を意味している。過去の体験は遠い幼年期の体験でもあれば、つい数週間前の体験のこともある。
第二に、過去は過去の記憶を指している。 たとえば「過去を忘れる」とは、過去そのものが忘れられるのではなく、過去の記憶を忘れることである。過去の記憶、厳密にいえば過去に起きた出来事の記憶は、一生涯保持されることもあれば、消滅して永久に復活しないこともある。また、いったん忘却の淵に沈んだ記憶がなにかのはずみで蘇えることもある。
第三に、過去は過去の記録と同義語として用いられる。「過去を探る」とか「過去を洗い出す」という場合、それらは埋もれた過去の記録を調べることを意味する。
第四に、過去は現在および未来と区別された時間区分として用いられる。「過去の出来事」というとき、過去という時間区分における出来事を指している。
最後にあげた時間区分としての過去は、その前にあげた多義的な過去の用法に共通している一般的な過去理解である。とはいえ、この一般的に用いられている時間区分としての「過去」は、けっして明解であるとはいえない。「過去の体験」や「過去の出来事」というときの過去とはなんであるか。体験や出来事を「過去の」と形容するさいには、体験もしくは出来事そのものとは別のものが意味されている。そうである限り、これらの言表において体験もしくは出来事と混同されない「過去そのもの」が了解されているはずである。過去とはなにかという問いにおいて問われているのも、この意味における「過去そのもの」である。
（４）過去が存在するとはどういうことか
冒頭に記したように、過去について考察しようとするときに確実にいえるのは、過去の記憶があるということである。過去の記憶は想起によって現在によみがえる。想起とは、記憶された内容を意識に出現させること、つまり人間が過去に体験し、記憶として保存されたものを現在に再現することである。知覚そのものは現在に起こり、それらが次々に記銘されて記憶として保存される。保存された記憶は想起によって現在に再現される。この場合に再現されるのは記憶された事象であり、それは過去の知覚の内容である。この記憶された知覚の内容は「過去の」と形容されているように、あくまでもかつて知覚したことであり、いま知覚していることではない。知覚の局面で、事物は「いまある」という存在様態で知覚される。「いまある」という存在様態で知覚されたものは一部記憶に保存される。記憶に保存された知覚の内容は関心または必要に応じて想起される。知覚されるものは「いまある」ものとして了解される。想起されるものは「いまある」ものへの参照において、すべての想起に共通する本質的特徴として「すでにあった」、「かつてあった」、「いまはない」、「もうない」などの言葉で了解される。想起において了解される存在様態を「既に存在した」という意味で既在性と呼ぶ。事物が「すでにあった」という言葉に代表される既在性において了解されるとき、その事物は「すでにあった」ものである。事物が「すでにあった」ものであるとは、その事物が既在性の存在様態で存在することである。想起とは、記憶された過去の体験や出来事を「すでにあった」という既在性の存在様態で現在に存在させる心の働きである。
想起された知覚を現在の知覚と決定的に区別しているのは、想起された知覚は「すでにあった」という既在性の了解を伴うことである。「過去の体験」や「過去の出来事」というときに「過去の」という形容において含意されているのも、この「すでにあった」という既在性の了解にほかならない。記憶に保存された過去の知覚は、その知覚を想起する心の働きにおいて「すでにあった」こととして了解されている。心の働きは現在における意識作用である。過去の知覚は、その知覚を想起する現在の心の働きにより既在性において了解されている。いいかえれば過去の知覚は「すでにあった」という既在性の存在様態で存在する。定義されたように、了解されている限りで現在に存在する存在の仕方を存在様態という。予期において了解された存在様態は未在性であり、想起において了解された存在様態は既在性である。過去とは既在性の存在様態である。未来が未在性の存在様態において人間の認識のうちに存在するように、過去は既在性の存在様態において人間の認識のうちに存在する。それゆえ「過去が存在する」とは、想起により「すでにあった」という既在性の存在様態で人間の認識のうちに存在することを意味する。
ここにおいて日常言語で用いられている過去は、既在性の存在様態が時間的に様態化された時間区分であると捉えることができる。同様に未来は、未在性の存在様態が時間的に様態化された時間区分である。いずれも非言語的な＜いま＞が時間的に様態化された時間区分としての現在を参照して概念化されている。
２．認識の基本構造
以上の考察から、「過去の記憶がある以上、過去が存在する」という素朴な推論が成り立たないことは明らかであろう。過去の記憶があるという事実から導かれるのは、記憶された過去の体験の知覚は想起されて現在に存在するということである。過去の知覚が想起されて現在に存在するとは、既在性の存在様態で存在するということである。この場合、想起によって再現された過去の知覚は、「すでにあった」こととして、現在の知覚と峻別されている。たとえば昔住んでいたことのある土地を訪れて、街並みや自然の景色に刺戟されてさまざまな過去の知覚が想起される。それらの知覚はいずれも「すでにあった」こととして了解されており、現在の知覚に取って代わることはない。想起がどれほど活発に働こうと、記憶された知覚が現在の知覚を凌駕することはない。風景を見てかつて同じ風景を見たことを思い出すことはあっても、その逆、つまり昔見た風景を思い出すことによってその風景の知覚が出現することはありえない。想起された昔の風景がそのまま現在に保存されて残っているのを見て驚くことがあったとしても、その驚き自体が知覚された風景と想起された風景の相違を前提としている。この場合、知覚された風景は「いまあるもの」として現在性の存在様態で存在するのにたいし、想起された風景は「すでにあった」ものとして既在性の存在様態で存在している。知覚された風景と想起された風景が峻別されるのは、両者は存在様態において厳密に区別されているためである。
過去の知覚は想起されることにより既在性の存在様態で現在に存在する。過去の体験が存在するのは、想起が働いているこの現在以外にない。しかしまた過去の知覚は、想起という現在の心の働きによって人間のなかに一時的に再現されているにすぎない。想起がやめば過去の知覚も消える。この意味で現在の知覚が実在的であるのにたいし、想起によって再現される過去の知覚は仮象的である。実在するのは現在の知覚であり、記憶はそれに付随して人間の頭のなかで一時的に生じるにすぎない。想起された記憶は仮象性の資格しかもたず、存在の事実性において「いまある」ことに拮抗しえない。
仮象性という点で記憶を夢と類比することも可能であろう。記憶と同様に夢のなかでも体験の主体は私である。夢のなかで私はいろいろな行為をし、さまざまなことを体験する。しかも私はそれが夢であるとは意識しておらず、夢から覚めてはじめてそれが夢であったことを知る。記憶が夢と異なるのは、夢の場合は夢を見ている人間は眠っているが、記憶の場合は想起している人間が覚醒していることである。記憶にあっては、人間は覚醒して、想起された内容が過去の体験であることを自覚している。過去の体験はこの現在における現実の体験ではなく、想起によって過去の体験が一時的に頭のなかに再現されたものにすぎない。これにたいし夢では覚醒しているときと同じように体験する。それは過去の体験ではなく、現在の体験である。現実の体験ではないが、夢のなかではそれが夢であるとは思っていない。夢のなかで起こる出来事は、まさにこの私が現実として体験し、恐れたり、喜んだり、悲しんだりする。そして目が覚めたあと、覚醒状態に照らしてはじめてそれが夢であったと知る。夢のなかでは夢と現実を判別することはできないが、夢は必ず覚める。そして覚めたら、その覚醒状態がこの現在における最終的な現実である。
記憶は人間がこの世に生まれて以来体験した内容を保存している。といっても実際にすべての体験について記憶のカードが作られるわけではない。記憶される体験は、人間のそのつどの関心の方向や強さによって選別される。たとえばある目的を立てそれを実現しようとするとき、その目的に関連する事柄はよく覚えているが、関係ないことは瞬時にして忘れる。人生でこのうえなく楽しかったことや、逆に非常に苦しかったことや、きわめて不快だったことなども長く記憶しており、ときには一生記憶に刻まれる。記憶に保存されるのは、個々の人間にとってなんらかの意味のある体験である。人間にとって重要な意味をもつ体験は、人生のさまざまな局面で基本的パターンとしてなんども繰り返し想起される。そのような体験は比較的最近の出来事でもあれば、遠い幼年時代のこともある。生まれて以来収集されてきた記憶のカードが、そのときどきの必要に応じてカードケースから一時的に取り出されては再び収納される。ときには心的外傷におけるフラッシュバックのように、当人の必要とは関係なく突発的に現在によみがえる記憶もある。子供のときに親から虐待を受けたら、その体験は成人してからも人間関係のさまざまな局面で繰り返し想起される。逆に難局に直面したときに、過去の同様の困難を克服したときの記憶を支えにして耐えることもある。人間の記憶の領域は、生まれて以来蓄積されてきた過去の体験で満ち溢れている。
想起された過去の体験は、現在の体験に厚みを与える。たとえば昔のアルバムを見るとき、写真を見ていること自体は現在の知覚であるる。しかし、現在の知覚に伴って過去の体験が思い出され、それに付随してなんらかの感興が呼び起こされる。それはそれぞれの体験に応じて哀惜、悲哀、苦渋、悔悟などさまざまである。このとき現在の知覚は、想起された過去の体験によって彩られている。人通りのないさびれた街並みに立ったとき、現在の光景に往時にぎわっていた光景が一瞬重なる。いま見ている風景は二重写しのような厚みをもつ。このようなことが起こるのは、ことさら意図的に想起する場合に限らない。目的地に向って通りを歩いていても、行きかう人や、車や、建物や、看板や、街路樹などが次々と目にはいり、あるいは雑多な音が聞こえ、匂いも漂ってくる。そのたびにそれらがきっかけとなって連想されるさまざまな事柄が瞬時に思い起こされては消える。次々と想起される記憶は大部分は、目的地に向って歩くという当面の行為と直接関係ない。それらは直近の出来事のことでもあれば遠い昔のことでもあり、楽しいことでもあれば、不愉快なことでもある。いかなる予期も含まない知覚が存在しないように、いっさいの想起をそぎ落とした瞬間的知覚も存在しない。現在の具体的な知覚において、つねに「まだない」ものが予期され、それと同時並行的に「すでにあった」ものが想起されている。人間の認識は予期と知覚と想起を基本構造としている。1)
３．過去は存在しない
体験は記憶に保存され、想起によって現在に再現される。しかしそれは記憶が過去をあるがままに再現することを意味するものではない。記憶があることと記憶が正しいこととは別のことである。記憶の多くは次第に薄れ、ついには忘却の淵に沈む。この場合は記憶のカードそのものが消滅する。たとえ忘れずに覚えていても、他人の体験のすり替わりのようにそれ自体が記憶違いのこともある。記憶が過去を正確に再現できないのは、人間の記憶の容量が限られているためだけではない。それは根本的に人間の認識が有限であることにもとづいている。ある出来事が起きたとき、この出来事に関する認識はそれが発生した時点においてすら事実を完全に反映しているとはいえない。それは人間が現に起きている出来事にたいして決まった視角からしか接近できないからである。出来事の全体像に迫ろうとすれば特定の視角からではなく、全方位から見なければならない。しかしそのようなことは神ならぬ身には不可能である。そのうえ同じ出来事でも、それを体験する個々の人間の体制に規定されて、種々さまざまなかたちで受けとめられる。同じ風景を前にして、そこに画家が見ているものと、素人の目に見えるものではまるで違うだろう。政治的事件であれば、その捉え方は各人の政治的な立場や見解によって決定的に影響されるだろう。このように人間は現在の出来事を全体として見ることもできなければ、客観的に認識することもできない。記憶とは現在の知覚と認識を保存するものであるから、それはもともと不完全な知覚と認識を保存しているにすぎない。しかも記憶は次第に薄れていき、さらには別の事柄の記憶が入り混じったりして種々の変容をこうむる。その結果、同じ一つの出来事について複数の人間が記憶している内容はそれぞれまったく異なるということが往々にして起こる。
これまで見てきたように、現在の体験と過去の体験は了解において異なる存在様態として区別されている。現在の体験と過去の体験は存在様態が異なるが、両者を共通に結びつけているものがある。それは現在の体験も過去の体験も「私の体験」だということである。体験するとは私が体験することであり、記憶に保存されて想起された体験も「私の体験」である。そもそも私は自分が体験していないものを思い出すことはできない。想起において私が思い出すのは、かつて私が見た光景であり、私が聞いた楽曲であり、私が出会った人々である。それらの体験が私のなかに記憶として保存されるのは、あくまでも「私の体験」という資格においてである。私の過去の体験を構成できるのは「私の体験」のみであり、他人の体験ではない。昔聞いた他人の体験談が、記憶のなかで自分の体験にすり替わることはありえる。しかしすり替わった時点でその体験の主語は私になる。記憶において保存されるすべての体験は、すり替わった体験も含めて、私が主語として関与している。生涯を通して記銘され記憶に保存される体験はどれも「私の体験」として刻印される。 過去の体験は、想起によって「すでにあった」という既在性の了解において「私の体験」として再現される。なぜなら体験したことについて「すでにあった」という既在性の了解をもちえるのは私だけだからである。前述の「現在が過去の結果であるためには、過去は過ぎ去りながらも現在と断絶することなくつながっているのでなければならない」ということを体験のレベルで見るならば、現在は「私の体験」として過去と接続している。過去の体験が「私の体験」として現在に存在していることによって、現在の体験は過去から継続しているのである。
以上の考察にもとづき、冒頭に掲げた「過去の記憶がある以上、過去が存在する」という立言は、次のように解する場合に限って正しい。過去はこの現在に人間の記憶として存在している。人間の記憶とは「すでにあった」という既在性において了解された過去の体験である。想起において過去の体験は現在に再現される。このとき過去は既在性の存在様態において現在に存在する。過去は、それぞれの人間の想起という心の働きによってこの現在に存在する。それゆえ過去は人間の数だけ存在する。しかも過去は各人の記憶の坩堝のなかで絶えまなく変容する。人間が想起しない限り、過去の体験は現在にその存在をえることはない。過去は既在性の存在様態として現在に存在するが、過去としての過去は存在しない。
1)時間を知覚と予期と想起からなる認識の基本構造にもとづいて解明しようとする先例は、すでに1600年以上前に見出される。アウグスティヌスは『告白』（山田晶訳）のなかで神の前で懺悔すべき自己を省察する過程で魂が分散した状態としての時間性を発見した。要約すると、過去は「もはやない」ものであり、「未来はまだない」ものであり、あるといえるのは現在だけである。それゆえ過去、現在、未来という三つの時があるとはいえない。厳密にいえば過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在の三つの時がある。これらの三つの時はいずれも魂のうちにあり、魂以外のどこにも見いだすことができない。すなわち時間とは人間の外にあるものではなく、人間の魂を離れて時間は生じることも存在することもできない。では魂のうちで過去、現在、未来はどのようなありかたをしているのか。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」である。記憶、直観、期待は精神の働きであり、この精神の働きによって過去、現在および未来が生じる。これをいいかえれば、人間は時間のなかに存在しているのではなく、精神の働きがはじめて時間を存在させるのである。アウグスティヌスは自己を深く掘り下げることによって、時間そのものを生じさせる精神の働きを捉えた。アウグスティヌスはそのような精神の働きの内に根源的に時間化されている自己を発見した。アウグスティヌスにとってこのような自己は、人間の不完全のしるしである。なぜなら自己は時間化されていることにおいて多様であり、それによって一なる神と区別されているからである。アウグスティヌスは、時間の源泉を記憶、直観、期待という精神の働きに求めたが、この方法論を近代において受け継いだのはベルクソンとフッサールである。時間にアプローチするためにベルクソンは持続の直観から、フッサールは時間意識から出発したという違いはあるが、基本的構図はアウグスティヌスと同じである。