第３章 主体論的視点
第２節 主体
1．主体
自我論的考察において確認したように、自我は意識活動という側面で見れば能動的であるが、同時に意識活動の結果が与えられるという側面で見れば受動的である。これを人間と自然の関係において見るならば、人間が自然に働きかける側面では能動的であるが、自然から働きかけられる側面では受動的である。この能動的側面と受動的側面が一体となった人間と自然の弁証法の基礎のうえに自我の意識活動が成り立つ。人間と自然との基本的な関係において、人間とは自我に還元されるものではない。なぜなら、自然との関わりは自我に統括された意識活動だけでなく、身体の動きをも統合した活動として遂行されるからである。人間は自我によって心の働きと身体の動きが統合された活動の主体である。心と身体を統合した活動の主体というとき、統合とは自我が活動を人称的に統括すること、つまり自我が活動の主語となることである。あらゆる活動は心の働きと身体の働きを統合した主体によって遂行される。自然との関係において人間は自然に働きかける主体であるのにたいして、自然は主体によって働きかけられる客体である。主体と客体の関係において主体は客体に働きかけ、その結果として主体は客体から反作用を受ける。この働きかける主体と働きかけられる客体との関わりを＜主体－客体関係＞と呼ぶ。＜主体－客体関係＞は、基本的に主体と客体とのあいだの作用と反作用の弁証法的な相互関係である。
ここで「主体」と「主観」の違いに言及すると、人間の活動を認識に限局した場合に「主観」と「客観」の対立関係が立てられる。認識とは、人間の心の働きのうち了解や理解や推定や判断など事柄の把握にかかわる知的能力の作用である。この場合、主観は認識主体であり、客観は認識の対象である。これにたいして＜主体－客体関係＞は、身体を統合した活動主体と、この活動主体に相対するものとしてとらえられた客体との関係である。これは人間を考察するにあたって設定される基本的な観察レベルの相違である。認識は身体を含めた人間の活動の一部である。認識主体としての主観と、それに相対する客観の関係は、身体を統合した活動主体と、この活動主体が関わる客体との＜主体－客体関係＞に包含される。
活動の主体としての人間が備えている特異的な性質を主体の諸特性という。主体の諸特性には、性格や素質などの遺伝的特性、持久力や俊敏性などの身体的特性、知性や感性などの精神的特性が含まれる。これらの特性は、人間がこの世界に生まれて以来そのときどきの状況において他の人間およびもろもろの事物との関わりのなかで獲得され、形成され、強化される。主体の諸特性は、人間が現実と関わる際の主体の側の基礎的条件である。
主体の諸特性で遺伝的特性に分類されるのが性格である。性格とは人間と状況との関わりの基底にあってそのつどの状況の局面に相対する主体の基本的な姿勢である。性格は主として遺伝的素因にもとづくが、遺伝だけで100パーセント決定されるものではない。ここでも主体の諸特性が周囲の環境に発揮され、その反作用を受けて主体の諸特性そのものが形成されるという原理は妥当する。つまり性格は遺伝的素因と環境要因の相互作用によって形づくられる。具体的にいえば、性格は生まれついての遺伝的な素質と、生まれ育った家庭や地域などの環境との相互作用として形成される。こうして形成された性格は人生の比較的早い時期に定着し、人間と状況との関わりの原型をなす。たとえば物事にたいして積極的か消極的か、他人にたいして開放的か閉鎖的かといった状況と関わりにおける主体の基本的な身構えである。性格は、生涯にわたりさまざまな局面で基底的な枠組として発現する。いったん形成された性格は容易に変化しない。
主体と客体との関わりにおいて発揮される主体の諸特性を能力という。能力は精神的能力と身体的能力に大別される。精神的能力とは認識力や判断力や想像力など、精神的活動に関与するすべての能力である。身体的能力は体力や瞬発力や持久力など、身体的活動を可能にするすべての能力である。しかし実際の活動の場面においては精神的能力と身体的能力が一体となって発揮されることは、たとえば音楽家の楽器の演奏を見れば一目瞭然であろう。楽器の演奏を芸術的能力というならば、大工仕事は技術的能力といえる。たとえば材木の表面をカンナで削って滑らかにし、さねはぎをつけて寸分たがわず継ぎ合わせるのは、身体的能力と精神的能力が融合した技である。これらの活動に比べればはるかに単純な車の運転にしても、頻繁にアクセルやブレーキやハンドルを操作する身体的能力が、交通規則の認識や道路状況の判断といった精神的能力と密接に関連していることは経験から知るところである。 車の運転を活動とすれば、アクセルやハンドルの操作は活動を構成する個々の行為である。人間のすべての行為は心の働きと身体の動きを統合することによって成り立つ。
能力が性格と異なるのは、性格が人間と状況との関わりの原型をなすのにたいして、能力は人間と状況との関わりをとおして継続的に形成される点である。それゆえ性格は比較的早い段階で定着するが、能力は人間と状況との相互作用の過程をとおして絶えず成長し変化する。能力のうち身体的能力のほうは生理的な年齢に規定されて成長のピークを迎えたあとは次第に衰えるが、精神的能力は生理的な年齢に制約されることは少ない。とはいえ年齢とともに記憶力は次第に衰え、認識能力も鈍る。その好例が老人性認知症である。性格が状況にたいする主体の基本的な身構えであるとすれば、能力はその身構えにおいて主体が手にする武器である。人間はそのつどの局面において性格の身構えで状況と相対し、能力の武器をふるって状況を打開するのである。
２．体制
この世界で客体との関わりにおいて主体の諸特性は組織化される。組織化とは主体の諸特性が他の人間や対象との関わりにおいて有効であるように編成されることである。このとき主体の諸特性は、特定の客体に目標を定めて互いに有機的に関連しあう。こうして組織化された主体の諸特性が、他の人間や対象と交渉するために動員される。主体の諸特性が動員されるとは、客体との関わりにおいて主体の能力が発揮されることである。能力はそれ自体は潜在的であり、主体と客体の関わりにおいて発揮されてはじめて顕在化する。主体は客体との関わりにおいて能力を発揮した成果をみずからの体制に取り込む。体制とは、客体との関わりにおける主体の基本的な構えである。主体はつねになんらかの体制で客体と相対して客体に働きかける。その成果は体制をとおして主体に取り込まれ、主体の内部で処理されて「栄養」として吸収される。これを体制化という。主体は、能力発揮の成果を体制化することによって、さらに能力を発展させる。主体の能力は、それ自体が能力の形成と発揮と発展からなる動的過程である。
能力は主体と客体との関わりにおいて、客体への働きかけとその反作用をとおして不断に形成される。主体と客体は互いに不可分の動的な相互関係にある。主体の能力が高まるにつれて客体への働きかけは強度を増し、それに対応して客体から主体への反作用の度合いも増す。逆にまた客体の反作用が強まることによって、主体の能力の成長がいっそう促進される。主体の能力が成長するにつれて、主体と客体の関わりは深度を増し、そのなかで主体と客体は相互的に変容する。このような主体と客体の動的な相互作用をとおして、主体を取り巻く世界はしだいに深化して、その幅と奥行を広げる。主体が客体との関わりをとおして成長すれば、それに対応して世界そのものがその広がりと豊かさを増すのである。
上述のように能力は、主体の諸特性が客体に向けて組織化されることをとおして形成される。しかしまた形成された能力はつねに主体と客体との関わりにおいて発揮される。能力は主体と客体との関わりにおいて発揮されることによって顕在化する。能力はそれが要求される局面で組織化され、発揮され、その結果として能力そのものが形成される。たとえば絵を鑑賞することは、それ自体が主体の能力を発揮することである。なぜなら絵を鑑賞するためには審美眼という能力を発揮しなければならないからである。しかしまた、絵を見るという行為を離れて審美眼が培われることはありえない。審美眼は絵を鑑賞する行為を重ねることによって磨かれるのである。審美眼が十分磨かれると、それまで乱雑に混じりあった絵の具の塊にすぎなかったものが、内在的リズムを備えた抽象画として現われる。こうしてはじめて絵の具の塊は、画家が創り出そうとした本来の姿を見せる。このように能力は形成されると同時に発揮され、発揮されると同時に形成される。
能力が形成されることに対応して、客体はそれまで見えなかった側面を見せる。能力を発揮するとは客体をなんらかのかたちで変容させることである。彫刻家は石塊との格闘をとおしてその能力を発揮し、石を切り刻んで変容させることによって像を造りあげていく。こうして生み出される石像は、彫刻家の能力の成果である。能力はなんらかの成果に結実する限りにおいて発揮される。主体の内で形成された能力は、成果を生み出すことにおいて発揮される。しかしまた能力を発揮して成果を生み出すことは、その成果を所有することでもある。石を刻む彫刻家はその成果を自分の目で見たり自分の手で触れたりしてわがものにする。能力を発揮する主体自身によって所有されない成果というものはありえない。能力を発揮するとは、その成果をみずから所有することである。主体の能力発揮の成果をみずから所有して肯定的に受容することを享受という。
能力の形成および発揮とその成果の享受は力動的に一体化している。能力は成果が享受される場面において発揮される。能力とは煎じ詰めれば享受の能力である。このような享受の能力を図式化するならば、能力－形成－発揮－成果－享受というように分節化される。しかしこの図式は厳密な等式ではない。能力の形成および発揮とその成果の享受はつねに均等に起こるとは限らない。現実には能力の形成に力点がおかれる局面もあれば、能力の発揮とその成果が主要な局面もある。たとえば音大の受験生がピアノの練習をする行為それ自体は能力の形成－発揮－成果－享受のすべての要素を含んでいるが、主観的には圧倒的に能力の形成に重点がおかれている。しかしピアノを練習しながら能力発揮の成果を自分で確認するというかたちで、これを享受していることに変わりはない。たとえ長時間の練習が苦痛を伴うとしても、能力発揮の成果を確認することによって得られる享受の度合いが苦痛の程度を上回れば、苦しい練習も乗り越えることができる。この場合、能力発揮の成果を享受するとは、ピアノの音そのものを聞くことに尽きるものではない。ピアノの練習をするのは音大に入学するためであり、それを達成すべき目的として措定した時点で、その目的は価値があると評価されている。措定された目的を価値があると評価することにおいて、その価値そのものが享受されている。なぜなら享受されない価値というものはなく、たとえ現実的ではなく仮想的であれ享受されているからこそ実現すべき目的として措定されるからである。この措定された目的とその価値を基準として、ピアノの演奏水準が音大の入学試験に合格するほどに十分であると評価されたときにその演奏は価値があると認められる。能力発揮の成果を享受するとは、この目的に照らした価値を享受することにほかならない。
あらゆる心の働きは総じて「私が意識する」というかたちで統括される。同様にあらゆる行為は私を主語として「私が行為する」というかたちで統括される。あらゆる行為は自我の人称的同一性のもとに統括されて連続的に遂行される。自我の人称的同一性が根底になければ行為の連続性は成り立たず、行為そのものが存在しえない。活動は、自我の人称的同一性に統括された行為の集合によって構成される。あらゆる行為が主語としての自我の同一性のもとでなされるように、行為の集合である活動も根底において自我に統括されている。活動とは具体的な状況で現実と関わることであり、それを遂行するのは心の働きと身体の働きを統合した主体である。主体は具体的な活動の行為において自我によって人称的に統括されている。自我は心の働きを統括する主語として直接身体と結ばれていないが、＜身体に包まれた心＞の働きを統括する限りで間接的に身体と関係している。これにたいして現実に活動する主体は身体と統合されて一体化している。自我はあらゆる行為を主語として人称的に統括するが、主体は個々の行為の集合としての活動を主体的に統括する。活動を主体的に統括するとは、活動において主体の諸特性を組織化することである。主体は主体の諸特性を組織化して現実に働きかける。現実に働きかけるとは、現実との関わりにおいて主体の能力を発揮することである。そのさいに主体は現実的な成果を達成するため、現実の諸条件を活動に取り込む。現実に働きかける結果として主体は現実の側から反作用を受ける。現実の側からの反作用は意図された成果のことでもあれば、障害に遭遇して方向転換を余儀なくされることでもあり、あるいは現実への働きかけに失敗して挫折することでもある。
心の働きのレベルにおいて自己は自我と同一視できるが、活動のレベルにおいて自己は心と身体の働きを統合した全体として現実と関わる主体である。といってもこれらはそれぞれの観点でとらえられた自己の様態であって、二通りの自己が別々に存在するわけではない。自我は主語機能としてあらゆる行為の根底にあり、心の働きを含むすべての活動を成り立たせている。しかしそのつどの状況において実際に活動するのは主体である。自我の主語機能が発揮されるのは、主体の活動においてのみである。主体の活動がないところで、自我が主語機能を発揮することはできない。たとえば「われ思う」ひとつ取っても、「われ」という主体が「思う」という心の働きをすることにおいて、自我が主語として働くのである。ここでは「思う」ことに代表される精神的活動なしに「われ」は主語機能を発揮できない。自我はあらゆる行為を人称的に統括することにより、主体を活動の主体たらしめる。いいかえれば自我は活動の場面で主体として実現されることによって存在するのである。
主体はこの世界において世界を構成する要素に出会い、それらの事象と不断に関わる。しかし主体がこの世界の事象と出会うためには、事象が所与として主体に与えられると同時に、主体がそれらを受容することが必要である。主体が世界を構成する要素と出会う場面の根底には、主体の意識が働いている。すでに見たように意識とはあるものとの＜能動＝受動関係＞であり、意識はあるものが所与として与えられることにおいて、意識に与えられることを可能にする。意識と意識に与えられるものとは相互的な関係にある。人間が意識の＜能動＝受動関係＞において事象を受容することを経験という。経験は事象を受容することによって主体が事象と関わるための地盤を用意する。経験の地盤で受容された事象と関わることが体験である。先に体験を「自己が現実と関わる活動と活動の結果」（第2章第3節）と定義したが、それは＜主体－客体関係＞でいえば主体が現実に働きかけるとともに、その結果として客体としての現実から反作用を受けることである。主体はそれらの現実からの反作用を体験として体制化し、主体の能力に同化する。主体が現実と関わることにおいて、この体制化のプロセスによって主体の諸特性が継続的に形成される。
体験は、身体を統合した主体として事象と関わることである。具体的にいえば自然の事物を加工して農作物を収穫したり、家を建てたり、機械を製造したりすることである。それはまたさまざまなレベルの共同体に参画し、共同体を維持するために規律や制度を設けることでもある。さらに観念を練りあげて美術や音楽や文学作品を生み出すことも事象と関わることである。ようするに体験とは、主体が客体に働きかけ、それによって客体の側から反作用を受けるという弁証法に含まれるいっさいの活動である。体験は主体と客体の相互作用である。体験において主体は客体を受け止め、客体に働きかけ、客体からの反作用を受ける。反作用の結果は主体のうちに取り込まれ、主体の諸特性に同化されて主体の諸特性そのものが成長する。
３．企図
主体が関わるすべての客体は世界のなかに存在し、それらと関わる主体の活動もことごとく世界において遂行される。主体が世界を構成する要素と関わることは、総じて世界を体験することである。主体はこの世界で客体と不断に関わるが盲目的に関わるのではない。主体は客体との関わりにおいて実現すべき目的を措定し、その目的を達成するための手段を探す。そのさいに現実の諸条件を勘案して目的を達成するのに最も有効な方途を策定する。このように目的を措定し、その実現を企てることを企図という。企図において出発点となるのは目的を措定することである。目的を措定することは、いま現在はその目的を所有していないことが前提とされている。所有していないものを手に入れようとする動機を所有の志向性という。所有の志向性において手に入れようとする当のものは主体にとって有用なものとして評価され、価値が認定されている。あるものを達成すべき目的として措定することは、そのものは価値があり、いま現在は所有していないことを前提とする。所有の志向性とは、まだ所有していない価値のあるものが、すでに所有したものになることをめざすことである。この所有の志向性にもとづき、価値あるものは目的として措定され、その目的を達成することがめざされる。
目的を措定するとは、現在はそれを所有していないが、同時に当の目的を達成した成果を現在に先取りすることである。つまり目的を措定することは、現在は所有していない目的を達成した状態を仮想的に享受することである。この段階では目的達成の成果を所有した状態はまだ現実のものとなっていない。先取りされた所有の状態は、そのつどの現在における目的達成のプロセスを経て徐々に現実的に所有した状態へと移行する。それにともない先取りされた所有の仮想的な享受は、次第に充実して現実的な享受となる。たとえば画家がなにかの主題の絵を描こうとしたとき、主題が目的として措定され、その主題を表現したイメージが画家の頭のなかで先取りされる。絵を描くとは、このイメージをキャンバスのうえに定着させることである。画家が頭のなかに思い浮かべるイメージは、まだ現実的には実現されていない。しかし画家は頭のなかでイメージを思い描くことによってそれを仮想的に享受する。イメージはキャンバスのうえに絵の具を塗り重ねることによって徐々に現実化される。それにつれてイメージの享受も仮想的な享受から次第に現実的な享受になっていく。最初は頭のなかのデッサンにすぎなかったイメージが、徐々に多様な色と形の組み合わせによって具体化される。そしてついに絵が完成したとき、画家のなかで思い描かれていたイメージは豊かな色彩と形態をまとった現実の像としてキャンバスの上に出現する。このとき画家は先取りされたイメージを具体的に所有して現実的に享受する。先取りされたイメージのデッサンから完成した作品にいたる過程は、目的達成の成果を所有していない状態から、これを所有した状態に移行するプロセスに対応している。ある主題で絵を描こうとするのは、目的を措定することであり、達成すべき目的として措定されるものは完成した絵であるが、それはまだ所有されていない。完成した絵をイメージとして思い浮かべるのは、目的を達成して所有した状態を先取りすることである。画家はキャンバスの上にデッサンを描きながら、完成した絵を先取りして仮想的に享受する。この仮想的な享受はそれ自体が目的である完成した絵の価値を確認することである。
企図において措定された目的を達成することは、目的達成の成果を所有していない状態からその成果を所有した状態に向かって進むことである。それは目的を措定する主体に即していえば、目的を措定するさいに主体がめざしているのは、目的達成の成果を所有していない状態から、その成果を所有した状態へ移行することである。この局面で主体は、目的として措定されるものの価値を認めているだけでなく、その目的を達成した成果を了解するとともに、その成果を所有した状態を先取りしている。本来、目的を達成した成果を所有するとは、目的として措定されたものを具体的なかたちで手に入れ、それを享受することであるが、目的を措定する局面で目的達成の成果は先取りされて所有されており、その限りにおいて目的達成の成果は享受されてもいる。しかしそれは場合によっては実現しないかもしれないという留保付きの享受である。目的を達成した結果として享受が現実のものとなるためには、留保条件を克服しなければならない。それには現実の諸条件を考慮して目的達成に必要な努力を払う必要がある。したがってこの場合の享受は現実の享受ではなく、留保条件を克服した末に目的を達成した結果として約束された享受である。しかしまたこの約束された享受が、措定される目的が実際に価値あるものであることを保証する。約束された享受があるからこそ、目的を達成することによって得られる成果が、そのために払う努力に見合った価値があると判断できるのである。あるものを所有しようとするとき、約束された享受が先行することによって、はじめてそのものに価値を認めることができ、そのものを所有することが目的とされる。現在あるものを所有しておらず、それに価値を認めて手に入れようとするとき、それを手に入れた状態が先取りされて目的として措定されるのである。それゆえ目的を立てるという行為そのものが、目的達成の成果を先取りすることを前提としている。
主体は企図において目的を措定し、その目的を達成するために現実の諸条件を考慮して目的連関を策定する。目的を措定するさいに主体は目的を達成した結果を先取りする。主体は目的として措定されたものを現実的には所有していないが、目的を達成した結果を仮想的に所有する。主体は目的達成の成果を先取りすることによりそれを享受してもいる。しかしそれは成果の現実的な享受ではなく仮想的な享受である。この観点から、目的を達成するとは、先取りして仮想的に享受された目的達成の成果を現実において所有し、それを具体的に享受することであるということができる。目的達成の成果を先取りして仮想的に享受できるのは、その成果が価値あるものとして評価されているからである。そもそも成果が価値あるものとして評価されなければ、それが享受されることもない。逆に目的達成の成果が先取りされて享受されるならば、その成果は価値のあるものであることが確認される。つまり目的を措定するに当たって目的達成の成果が先取りされて享受されることによって、措定されるべき目的に価値のあることが保証される。そして目的の価値が確認され保証されることにもとづいて、それは達成すべき目的として措定されるのである。
企図において、約束された享受は目的を措定するための前提条件であると同時に、措定された目的を達成するための原動力でもある。目的達成の成果を仮想的にせよ享受するからこそ、主体はそれを価値あるものと認めることができる。いいかえれば主体はこの仮想的な享受によって価値があると確認したものだけを目的として措定するのである。この企図の全プロセスにおいて、主体は現在の枠内にとどまっていない。なぜなら主体は手に入れるべきものを現在は所有しておらず、またそれを所有するという目的が達成されるのも現在ではないからである。もし主体が現在の枠内におさまっていたら、目的を措定するということ自体ありえない。主体は目的を措定することそれ自体において現在を越え出ている。逆にいえば、主体は現在を越え出ることによって目的を措定する。主体にとっておよそ企図が可能であるのは、主体が現在を越え出るからである。しかし人間はいかにして現在を超え出ることができるのだろうか。また、人間が現在を超え出ることができるのはなぜなのか。それは人間のいかなる構造にもとづいているのか。それを明らかにするには、時間論的視点からの考察を待たなければならない。