一般に＜翻訳＝語学力＞と考えられがちだが、実際のところ翻訳に占める語学力の割合はせいぜい一割にすぎず、残りの九割は日本語の能力である。とはいえ語学力が欠如していたら、翻訳という行為そのものが成り立たない。では、翻訳に必要な語学力とは何か。
単語の知識だろうか。大学受験の経験から誰もが知っているように、覚えられる単語の数にはおのずと限りがある。それに翻訳の仕事はきわめて多岐にわたり、しかも日々新しい言葉が生まれている。したがって、すべての単語を覚えるのはとうてい不可能だ。そんなことに労力を費やすより、どんな語彙にも対応できるようにできるだけ多くの辞書や辞典を手元に揃えておいた方がはるかに得策である。
では、語学力とは文法の知識だろうか。文法とは話された言葉や書かれた文から抽象された規則の体系であり、言葉や文そのものではない。文法に関する知識が豊富でも、書かれた文章の内容を理解する能力とは必ずしも比例しない。高校の英文法の授業で習う程度の知識があれば、翻訳には十分だろう。
であるならば、翻訳に求められる語学力とは何か。それはひとことで言うなら「文章を読み込む力」である。文章を読み込む力とは、簡単に言えば、文章を読んで何が書かれているのか、筆者が何を言おうとしているのかを把握する力である。そのためには書かれた文に即して、丹念に掘り下げて読んでいかなければならない。これは単なる読解力というより、「読掘力」（どくさくりょく）と呼んだ方がしっくりくる。岩盤に食い込むドリルのように文章を読み掘るのである。
それでは「読掘力」を養うにはどうしたらよいいか。それには、とにかく文章を読むしかない。それも多読や速読でなく、原書を辞書と首っ引きになって読み通すのである。これを何度か繰り返すうちに、着実に力がついてくる。この訓練をやったかやらないか、あるいはどれだけやったかによって、後に大きな差がつく。その差は、表面から深さ1センチの孔しかあけられないキリと、その十倍掘り下げられるドリルの違いのように顕著である。
キリとドリルの差は、翻訳という仕事の現場に出たときに決定的な意味を持つ。どれほど高性能のパソコンやソフトを導入して翻訳環境を整えても、当人の「読掘力」が1センチにすぎなければ、逆立ちしてもそれ以上の仕事はできないのである。
（2009年6月1日)