産業翻訳も出版翻訳も、翻訳の本質においては寸分違わないが、現象面ではかなり異なる。最も大きな違いは、出版翻訳の場合、翻訳したものが体裁よく印刷・製本され、翻訳者名入りの作品として残る点である。
これに対して産業翻訳は翻訳会社に仕事を納めたら、それっきりである。その先、クライアントのもとで製品カタログに加工されるのか、研究資料として活用されるのか、あるいは社内の会議で配布されるのか、翻訳者は全くあずかり知らない。もちろん翻訳者の名前がどこかで出ることもない。このように言うと出版翻訳に比べて産業翻訳はずいぶん味気ないもののようにも聞こえるが、私はそうは思わない。
翻訳会社から依頼される仕事の分野は、機械、金属、土木といった純粋に技術的なものから、財務、契約、マーケティングなどの実務、さらにはスポーツ、ファッション、料理に至るまで多種多様である。自分の得意分野や関心のあるテーマに出会うことはめったにない。むしろ、仕事でなければ一生垣間見ることすらなかったであろう分野がほとんどである。予備知識やバックグラウンドとなる経験があるわけではない。原稿を広げ、ただひたすらに書かれた文字を読み込んでいくだけである。
しかしそこには多かれ少なかれ一つの完結した世界がある。たとえ典型的に序論に始まり結論で終わる論文などのように体系的に構成されていなくとも、文章の長短にかかわらず、必ず全体を一本の糸のように貫く論理なりストーリーなりが潜んでいる。翻訳作業を通してこの糸をたどりながら、少しずつその世界に分け入っていく。こうしてあるときは科学者かエンジニアのように最先端のテクノロジーに触れ、あるときは新聞記者やニュースレポーターのように事件の現場に身を置く。それは、翻訳ならではの知的でスリリングな時間である。
専門的な学術論文などは､最初はほとんど､というより全く理解できないが、それでも四苦八苦しながら訳していくうちに、いつしか夢中になる。そしてその世界が徐々に姿を見せ始めるにつれて胸がときめく。私にとって翻訳とは何かを一語で表すとしたら、それは＜ロマン＞である。
翻訳が仕上がると同時に、その世界は跡形もなく消え失せる。そして私はすぐまた別の世界の入口に立つのである。
（2008年2月1日)