文体とは、野球にたとえれば、打者や投手のフォームのようなものである。フォームが崩れれば、打者はヒットが打てなくなり、投手はストライクを投げられなくなる。フォームはお仕着せの型ではなく、選手自身が作り上げるものだ。しかも、バットを振る、ボールを投げるという行為から独立して存在するものではない。フォームとは、ボールを投げ、ボールを打つという一点において、肉体と精神の諸要素が均衡する究極の形である。
翻訳は文章で表現される以上、何らかの文体を備えていなければならない。文体は、テンプレートのように既製の型に言葉を当てはめていく類のものではなく、書くという行為のなかでだけ生まれる。文章を書くことにおいて、表現に関与する諸々の要素が働き出し、互いに均衡するプロセスのなかで文体が形成される。そして文体が形成されたときに、文章もまた成立するのである。
「書かなければ分らないから書く」と言ったのは、小林秀雄だったろうか。この言葉の意味するところは、書くという行為を通して初めて対象を理解できるということである。つまり対象を本当に理解するためには、言葉で表現することが必要だということだ。そして言葉で表現するとは、とりもなおさず言葉を文体にもたらすということである。
同じことは翻訳にも言える。原文を読んだだけでは、本当の意味で理解することはできない。せいぜい筋を一通り把握できるだけである。それは速読であろうと精読であろうと違いはない。原文を読み、その論理や著者の意図や感情を日本語で表現する過程で初めて対象を理解できる。つまり翻訳することによって理解が生じるのである。原文をよく理解しているからよい翻訳ができるのではない。逆である。よい翻訳をするから原文をよく理解できるのである。
翻訳会社から今日中とか、明日の朝までといった特急の仕事を依頼され、手一杯で受けあぐねていると、「お客様はとにかく内容が分かればいいとおっしゃっていますので（多少雑でも急いでお願いします）」と言われることがある。しかし、そう言われたからといって気が楽になるわけではない。どれほど急ぎの仕事であろうと、力を抜くことはできないからだ。それは、納品物の品質に対する責任感というより、そもそも力を抜いたら文章が書けないからである。 一本足打法を究めてシーズン55本のホームランを打ったジャイアンツの王選手でさえ、「完成したフォームでなくてもいいからホームランを量産してくれ」と言われたなら、半分どころか１本も打てなかっただろう。
（2009年7月1日)