厚顔な生き物は産業翻訳だけでなく、出版翻訳の世界にも棲息しているようだ。
あるとき出版社から翻訳のリライトを頼まれた。できの悪い翻訳を何とか社内で処理しようとしたが、編集者の手に負えず泣きついてきたのだ。チェックが部分的な訳抜けや誤訳を手直しする作業だとすれば、リライトはできあがった翻訳をベースに全体を通りのよい文章に書き直す作業である。
出版の期日も差し迫り、担当者に懇願されて引き受けたが、訳文を見てすぐにとてもリライトできる代物でないことが分った。原文の理解が浅いため全体が薄っぺらなばかりか、理解できない個所は飛ばし、原著の真意とは全くかけはなれた「意訳」をしている。この翻訳者は、相撲にたとえれば、相手を真正面で受け止めて、ぐいぐい前に出る押し相撲タイプではなく、最初からはたいたり、いなしたりする引き相撲専門である。引きに引いて最後に自分から土俵の外へ飛び出した格好だ。チェックもリライトも不可能、かと言って引き受けた以上は返すわけにもいかないので、結局最初から全部訳しなおした。
それからしばらくして、たまたまインターネットで検索している最中に、この翻訳者のブログに遭遇した。家族構成からキャリアまで書いてあり、翻訳学校を出て何点か作品も手がけ、さらに自分が出た翻訳学校の講師もしているという。このような翻訳者を輩出し、あろうことか講師に迎えている翻訳学校とは一体何なのだろうと考えるとうそ寒くなった。
それより怖いのは、もし私がこの人物の翻訳原稿を見ることがなく、ブログだけ見ていたとしたら、きっと優秀で活躍していると受け取ったに違いないということである。ブログとは自分をこう見せたいと願望するものにいかようにも演出できる私製劇場のようなものだと痛感した。
しかし、本当に怖いのは、どんなに取り繕って見せたところで、どこかで化けの皮が剥がれてしまうことかもしれない。
（2009年5月1日)