思春期、突如内側から激しい動揺が私を襲った。私は衝き動かされるままに、この抗しがたい内部の動揺に形を与えるために「手記」を書いた。書く技術も、書くに足る内容や知識も持ち合わせてはいなかったが、得体の知れない情熱が私を書くことへと駆り立てた。書くことを通して情熱は地底に熱するマグマのように膨張し、地表を破って吹き出す火山のように私の固有の世界が形成されていった。
当時私は将来画家になることを目指し、美大に進むために主体美術協会の大村連氏に師事していた。一日の大半を自分の内にわきおこるさまざまな想念を書き綴ることに費やし、残りの時間は絵を描くことに費やした。油絵の具とのなまなましい格闘は、ちょうど書くことによって内部の混沌をねじ伏せ、文体のなかにとじこめる作業に対応していた。それは狂気じみた情熱にとって、やはり欠かすことのできない行為だった。書くことにおいてか、絵においてか、それとも別の何かにおいてかは自分でも判然としなかったが、「自分はいま間違いなく天才たちの仲間に属している」という意識が、私の胸を狂おしくときめかせた。世界はゆるぎなく生成し、情熱の火柱は未来へ向かってどこまでも突き抜けているかのように思えた。
しかしあるとき、その世界はまるで高速度撮影でも見るかのように、ゆっくりと崩れていった。私は狼狽し、いま自分の身に起きていることを懸命に理解しようとした。しかし世界の崩壊は無言のまま、どこまでもとどまることなく続いた。その事態にたいして私はまったく無力でなすすべがなかった。倦むことを知らぬ情熱は、焼かれるような焦燥感とはりさけそうな不安に取って代わられた。かつての自我の横溢はあとかたもなく消え失せ、はてしない自己喪失感が私を支配した。
高校3年のいよいよ受験も間近に迫ってきたある晩、大村先生のアトリエで静物の油絵を描いているうちに胸苦しくなった。そのとき私は激しく自問していたのである。いま自分はいかに生きるかという問題に直面している。これほど深刻な問題を抱えていながら美大に行って絵など描いていられるのか。こののっぴきならない問題を解決しなければ、生きていくことすらできない。それは時間にすれば短いものだったろうが、私は真剣に自問自答した。そして美大に行くのはやめて哲学に進むことを決心した。絵を描き終えて絵具を片付けてから、先生に「今日限りで絵をやめます」と告げてアトリエをあとにした。
こうして急遽進路を変えた私は上智大学の哲学科に入学した。しかしすぐに失望して大学闘争に走り、在学した4年間はほとんど授業に出なかった。その反省から卒業後に1年間猛勉強して、東京都立大学の大学院に進んだ。当時の都立大の哲学科の教授陣は、寺沢恒信（ヘーゲル）、吉澤傳三郎（ニーチェ）、加藤信朗(アリストテレス)、戸塚七郎(プラトン)、田島節夫（メルロポンティ）、秋間実（マルクス）、岡田紀子(ハイデッガー)、坂井秀寿（現代論理学）と、いまでは考えられないほど錚々たる顔ぶれを揃えていた。さらにそこに東大で助手をしていた新進気鋭のカント研究者の久保元彦氏が助教授として迎えられた。ちょうどその年に入学してカントを専攻として選んだ私は、奇しくも久保先生の「一番弟子」（一人目の院生）となった。
しかしまもなく私は、自分がカント研究者になろうと思っていないことに気づいた。というのも、私が関心を持っていたのは自分そのものだったからである。自分とは何か、それがすべての出発点であり、それがわからなければ一歩たりとも前に進むことはかなわない。私は修士論文を執筆する傍ら、自己の表層を内省のメスで切り裂き、ひたすら真の自己を追求した。それはまるで精神の自傷行為だった。玉ねぎの皮むきさながら徹底的に自己を削ぎ落した果てに行き着いたのは、自己の完全な無化であった。気がつけば私は抜け出ることのできない内省の牢獄に閉じ込められていた。私はこの牢獄の壁をひたすら「手記」を書き連ねることによって突き破ろうとした。しかし書けば書くほど内省の堂々巡りは深まるばかりだった。こうして私は現実から隔絶した内省のなかで、進むことも退くこともできない状況に陥った。この事態を私は「無限の遅滞」と呼んだ。
そもそも生身の人間としてこの世界に生きている以上、自己の確立は現実の生活を営むことが前提である。そのためにはまず経済的に自立することが大前提である。生きるということは、原理的に生きることであると同時に、あるいはむしろそれに先立ち生活の基盤を確保することである。こんなことは世の中の人にとってわざわざ確認するまでもないほど自明なのだろうが、当時の私はおそろしく現実から離れた地点に迷い込んでいたため、内省の迷路のなかで現実につながる通路を見つけること自体が至難の業だった。
私が翻訳と出会ったのは、こうした精神状況においてだった。翻訳は、私がそれまで閉じ込められていた内省の牢獄に風穴を開けた。翻訳によって私は現実と直結し、新鮮な外気を吸うことができるようになった。それまで私にとって書くことは、本質的に観念の世界に属する行為であり、そこではつねに自分自身が相手だった。翻訳も書くことには違いないが、翻訳で相対するのは自分ではなく、自分の外の世界である。現実に存在する物であり、そこに生きている人であり、そこで営まれている活動である。それらは壁の向こう側から言葉を介していやおうなく私のなかに入ってきた。翻訳の作業を通して、私は現実の事物と接することができた。翻訳は観念の牢獄からの解放感と、外の世界の事物に触れているという現実感を与えてくれた。それは、私が自分の経験や知識とは無縁のありとあらゆる分野を対象とする産業翻訳に強い魅力を覚え、次々に舞い込む仕事を嬉々としてこなすことができた最大の理由でもあった。
観念的であるという点では六十代を目前にした今も二十代といささかも変わらない。違うのは、自分が置かれている現実的な環境である。いまは仕事があり、人並みの収入があり、家庭を持ち、社会的にも多少なりとも必要とされるポジションにいる。どれも二十代のときには想像すらできなかったことだ。自分がこのような境遇にいられるのはすべて翻訳のおかげだと思っている。翻訳は私に現実的な生活基盤を与えると同時に、観念が現実から乖離しないようコントロールする働きをした。私は20年あまり1日の大半を翻訳を通じて現実社会とかかわってきた。途切れることのない納期の圧力は、いやおうなく私の生活時間を律した。自分の生き方や人生について考えるときも、常に翻訳の仕事を中軸に据えてきた。その意味で翻訳は、私にとって社会生活を営むうえで欠かせない羅針盤の役割を果たした。こうして初めて私の中で、＜生きること＞と＜生活すること＞が一つになったのである。
翻訳を始めて以来、翻訳は物質的にも精神的にも、私にとって最後の拠り所であり続けた。「最後の拠り所」とは、翻訳がなければ生きていけず、翻訳さえあれば生きていけるということである。自分が常にそのような場所で仕事をしているという自覚は、私に喜びと一種誇らしさをもたらした。
（2009年11月1日)
