翻訳市場に出回っている翻訳は、一般に「産業翻訳」と呼ばれている。しかし、私が翻訳を始めた当初はこの語はあまり耳にせず、「技術翻訳」というのが普通だった。技術翻訳の中でも、特に需要が大きい分野は、「特許翻訳」や「医薬翻訳」のように細分化されていた。ところが実際には、政治・経済・法律といった技術の範疇には含まれない分野のニーズも存在するため、より包括的に「実務翻訳」あるいは「ビジネス翻訳」と呼ばれることもあった。だが、翻訳の仕事には純粋に学術的または芸術的な内容のものもあり、それらは「実務」や「ビジネス」という言葉とは必ずしもなじまない。こうした事情から、次第に分野を問わず翻訳市場で扱われる翻訳全般をまとめて「産業翻訳」と呼ぼうという暗黙の了解が生まれたのだろう。
他方、「技術翻訳」という語と対をなしていたのは「文学翻訳」である。が、「文学」では範囲があまりに限定されるため、学芸全般を含めるという意味で「文芸翻訳」という呼称も用いられた。さらに、翻訳市場で扱う翻訳の総称として「産業翻訳」という言葉が生まれると、それに対応する概念として「出版翻訳」という言葉が登場した。こうして現在では、翻訳を産業翻訳と出版翻訳に大別するのが一般的である。
ここで注意したいのは、産業翻訳と出版翻訳をわける基準は、分野や内容ではなく、流通形態であるという点である。具体的に言えば、翻訳の発注者とエンドユーザーの違いである。産業翻訳の場合、発注者は企業であり、エンドユーザーは原則として発注者自身である。これに対して出版翻訳では、発注者は基本的に出版社であり、エンドユーザーは不特定多数の読者である。
たとえば、ある外国語の文献があるとする。その翻訳を出版社が手がける場合は、出版社が直接翻訳者に翻訳を依頼し、印刷・製本のプロセスを経て、不特定多数の読者に向けて刊行する。この場合、翻訳の発注者は出版社であり、エンドユーザーは不特定多数の読者なので、出版翻訳となる。しかし同じ文献を企業が自社の研究開発の資料として利用しようとする場合は、翻訳会社に翻訳を発注し、完成した翻訳を社内で使用する。この場合は発注者自身がエンドユーザーなので、産業翻訳ということになる。
とはいえ、この分類も万能ではない。出版社が出版予定の本の翻訳を翻訳会社に外注するケースが、稀ながら存在数るからである。この場合は、産業翻訳が出版翻訳の下請けに回るとでも言うべきだろうか。
（2008年1月2日)