翻訳家/翻訳者として生きていくのに必要な力を挙げるとすれば、＜体力＞＜気力＞＜能力＞の三つである。これらは失われることが早い順でもある。
翻訳は肉体を使う仕事ではないとはいえ、長時間パソコンの前に座り続けて頭と目と指を酷使するので、それに耐える＜体力＞が欠かせない。言うまでもなく体力は年齢とともに低下する。だから長期にわたって良い翻訳をするには、できるだけ長く体力を保つことが前提となる。しかも翻訳作業は相当な集中力が要求されるから、集中力を維持するためには常に体調を整えておかなければならない。
私は毎朝、自宅から4キロほど離れた仕事場に歩いて行くが、これが唯一の運動である。仕事場に着いたらすぐさま仕事に取り掛かる。まとまった休憩は取らない。昼食もパソコンに向かったまま握り飯をほおばる。パソコン台の正面にプラスチック板を据え付けて原稿台にして、引き受けた仕事はそのつど納期の早いものが上になるように積み重ね片端から訳していく。原稿台に積まれた原稿の厚さは、ここ数年はだいたい3～6センチ､翻訳枚数にして500～1000枚の間で推移している。このようにしているのは、納期をこまごま管理しなくてすむことに加え、何によりも抱えている仕事が常時目に入るようにして絶えず自分にプレッシャーを与えるためである。
1日の仕事のノルマは12時間。といっても12時間仕事しなければいけないというのではなく、12時間以上してはならないという意味である。それでも忙しくなると、自分で課したノルマを破らざるを得ないこともあり、13時間、14時間に及ぶこともある。タクシーを呼んでもできるだけ自宅に帰るようにしているが、最悪の場合は仕事場に泊まり込む。そうすると体調は確実に乱れ、その影響は少なくとも3、4日は続く。休日はない。週末や祭日は電話もFAXもなく、仕事のメールも入ってこないから、絶好の「仕事日和」である。
翻訳には体力に加えて＜気力＞が必要である。良い翻訳を生み出すには、常に意欲と緊張感を持ち続けなければならない。気力とは、そうした意欲と緊張感を持続させる意志である。気力さえ充実していれば、多少体力が低下してもカバーできるだろう。とはいえ、体力の低下がある閾値を超えれば、いずれ気力も衰えるのではあろうが。
＜能力＞は、ここでは翻訳能力を指すが、体力や気力に比べて衰えるのは遅い。能力は不断の向上心さえあれば長く維持できる。しかし、年数を重ねれば重ねるほど能力が増すかといえば、それほど楽天的なものでもないようだ。むしろ翻訳の仕事を開始した時点で潜在的な能力はおおよそ決まっており、それをどこまで掘り起こせるか、ということのようにも思える。そしてその能力をいつでも発揮できるようにしておくには、それ相応の努力が必要である。せっかく掘り起こした能力が再び眠り込んでしまわないよう、常に意識のサーチライトを当て続けなければならない。
翻訳はこれら三つの力さえあれば、年齢に関係なくいつまでもやれる仕事である。定年で仕事が機械的に打ち切られて収入が途絶えることもない。特定の企業に雇用されるわけではないので、定年を迎えて所属を失うという恐怖とも無縁である。こうして見ると、自由業という業態の不安定な性格とは裏腹に、翻訳ほど安定した職種はそう多くはないのではないかと、年を重ねるごとに思えてくる。＜体力＞と＜気力＞と＜能力＞の続く限り仕事して、原稿台の上に載った最後の1枚を片づけてから静かに息を引き取ることができたなら、どんなにか幸せだろう。
（2009年9月1日)