産業翻訳の世界で欠かせないのが翻訳会社である。翻訳会社は営業活動をして顧客を開拓する一方、翻訳者をプールして仕事を割り振る。翻訳者から上がってきた訳文をチェックし、顧客の要望に沿う形式に加工して納入する。翻訳会社は顧客と翻訳者を結ぶ要であり、翻訳者と翻訳会社は切っても切れない関係にある。
ときおり翻訳者のあいだで「顧客（企業）と直取引したほうが単価の点で有利だ」といったことが聞かれるが、それは間違っている。顧客の開拓、営業、受注、チェック、編集、納品、請求、支払など翻訳以外のすべての業務を翻訳者に代わってやってくれるのが翻訳会社である。ようするに、翻訳者にとって翻訳会社は文字通り「エージェント」なのである。本当に忙しい翻訳者なら、翻訳以外の雑事に時間を割かれたいとはけっして思わないだろう。だから私は、基本的にエージェントを通さない仕事はしないことにしている。
私が直の顧客より翻訳会社を優先するのには、戦略的な理由もある。たとえばA社と直接取引する代わりに、翻訳会社を経由してA社の仕事をしたとする。その結果、A社から「次回もぜひこの翻訳者で」と指名されらばば、この翻訳会社からA社の仕事を依頼されるのはもちろんのこと、B社、C社、D社....の仕事も回ってくるだろう。
フリーランスの翻訳者は、一つの会社に勤めて毎月決まった給料を受け取るサラリーマンとは違い、仕事も収入もまったく保証されていない。たとえ今週仕事があっても、来週あるとは限らない。大手の翻訳会社や特許事務所に社内翻訳者として勤務する手も、数は少ないがあることはある。しかしそれとて実態は繁忙期の臨時雇いに近く、けっして安定しているとは言えない。そもそも安定を求めて会社勤めを望むのであれば、翻訳業という職種はけっして賢明な選択肢とは言えない。
翻訳者が自由業の特権を手放すことなく、普通の会社員並みかそれ以上の収入を継続的に確保しようとするなら、複数の翻訳会社からコンスタントに仕事が入る体制を独力で構築する以外にない。そのためにすべきことはいろいろあるが、少なくともやみくもに数多くの翻訳会社に登録することではない。むしろ逆である。少数の信頼できる翻訳会社に的を絞り、依頼された仕事を圧倒的なクオリティーで仕上げ、翻訳会社が顧客から高い評価を受けて継続受注できるようにすること、さらにはその顧客の紹介によって翻訳会社が新たな顧客を獲得できるようにすることである。。
つまり、翻訳者と翻訳会社の関係は、翻訳者が翻訳会社から「仕事をもらう」だけでなく、翻訳者が翻訳会社に「仕事をもたらす」関係にならなければならない。
私は400字詰め原稿用紙に換算して年間約5000枚、この25年間に10万枚を優に越える仕事を翻訳会社から依頼され、それをこなすことを通して鍛えられもした。だから私は、自分は翻訳会社に育てられたと思っている。私にとって、より良質の言語表現を追求する機会と意欲を与えてくれるのが翻訳会社である。
翻訳会社はまた、私に次々と新しい挑戦を促してくれた。技術翻訳を始めてまもなくのころ、ある翻訳会社から特許の引き合いがきた。まだ特許翻訳は経験ないうえ、分野は苦手な電気。ということで躊躇していると、「ドイツ語の翻訳者で電気が専門、それに特許もやるなんて人は日本中探しても見つからないからお願いします」と言って、むりやり押し付けられた。
もともと英語があまり得意ではないこともあってドイツ語にしたのだが、「ドイツ語の翻訳ができるなら英語もできるはず」と、これまた強引に頼みこんできたのも翻訳会社だ。おそるおそるやってみて、ドイツ語も英語も、翻訳としては寸分違わないいことを発見した。
翻訳会社は一人でやっているところもあれば、数十人の社員を抱えている会社もある。平均的な規模は3～5人といったところだろう。翻訳会社に何年か勤めた後に独立して開業するケースも多い。最初の翻訳会社とは縁が切れたのに、後から独立した会社とは長く続いているということもよくある。これまでの25年間に出会った翻訳会社の数は100社をくだらないが、そのうち少なからぬ会社が姿を消した。この変化の激しい業界で、いくつかの翻訳会社とは縁あって今日まで良い関係が続いている。
（2008年3月1日)