翻訳会社の翻訳料には、顧客向けと翻訳者向けの2通りある。ようするに売り値と仕入れ値である。翻訳料の算出の基礎となるのは翻訳単価である。翻訳会社は顧客向けの単価を言語、分野、和訳か外国語訳かなどによって細かく規定して公表もしている。
翻訳者向けの単価にも一応基準はあるが、実際には翻訳者の経験や能力に応じて差がつけられている。並みの翻訳者はできるだけ安く使いたいし、優秀な翻訳者には少し多く払っても仕事を頼みたいからである。したがって翻訳者向けの単価が表に出ることは基本的にない。
翻訳会社の売り値が安ければ、翻訳者に支払われる翻訳料も当然低くなる。あるとき知人に誘われて翻訳者の集まりに顔を出したことがあるが、「どこそこの翻訳会社は単価が安くてけしからん」というようなことが話題になった。私は白けて聞いていた。翻訳料が驚くほど低かったとしても、それは「安かろう、悪かろう」のリスクを冒して経営する翻訳会社の方針であって、翻訳者が文句をつける筋合いのものではない。そのような経営方針に賛同するならその会社の仕事をすればいいし、賛同できなければ仕事しないだけの話である。
逆に、日頃取引のない翻訳会社から電話で単価を聞かれて答えたら、「それはうちの売り値。高すぎる」と文句をつけられたことがある。
翻訳者であれ翻訳会社であれ、この種の文句を言うためには、「翻訳料はこれこれであるべきだ」ということが前提となっていなければならない。もし国や自治体が翻訳単価を決めるというのであれば、それを守らないのは違反にちがいない。しかし翻訳業は他に類例がないほど自由な職業である。翻訳者になるのに資格が必要なわけでもないので、翻訳の実力があろうとなかろうと、誰でも好きなときに翻訳者を名乗れる。ことほどさように、翻訳単価も翻訳者が自分で決めていっこうに差し支えないのである。
翻訳は商品である。その商品価値を決めるのは、マルクスならば商品を生み出すのに費された時間と言うところだが、翻訳の場合は時間ではない。どれほど時間をかけようとも､翻訳そのもののできが悪ければ商品にならないからだ。同じ原文を訳しても、出来栄えは翻訳者によって月とスッポンほど違う。それが翻訳と他の商品で大きく異なる点である。
翻訳の商品価値とはユーザーにとっての有用性である。翻訳者が生産者で、企業がユーザーとすれば、その間に入る翻訳会社はさしずめ仲買人である。生産者＝売り手である翻訳者が料金を設定し、仲買人である翻訳会社が利益を上乗せして､買い手である企業に売り値を提示する。企業が商品価値に照らして納得すれば買うし、納得しなければ買わない。これが市場の原理である。
もっとも、実際には翻訳会社が先に企業に売値を提示する場合がほとんどであり、その後で翻訳者からいくらで仕入れるかは翻訳会社の裁量による。翻訳者に対して値切るだけ値切って利幅を確保するか、それとも翻訳者の言い値を受け入れて自社の取り分を圧縮するか。その判断基準となるのも翻訳の商品価値である。
こうした市場原理のプロセスを経て、一人ひとりの翻訳者に相応の翻訳料（単価）が決まっていく。実に単純明快で、誰にも文句のつけようのない話ではないか。
（2008年4月18日)