ワープロを導入したのは翻訳者としてけっして早いほうではなかったが、パソコンはさらに遅かった。ワードプロセッサーとしての機能だけ見れば、パソコンは1台50万円もするワープロ専用機にとうていかなうはずがない。翻訳者はとにかく文字をすばやく入力できればよく、その点では高性能のビジネスワープロにまさるものはない、というのが私の持論だった。しかしIT分野の技術革新は目覚ましく、その流れは翻訳業界にも大きな影響を与えずにはおかなかった。
90年代に入ると、翻訳業界ではマイクロソフト社のオペレーティングシステムMS-DOSを搭載したNECのPC9800シリーズと、日本語ワープロソフト「一太郎」の組み合わせが主流となった。その一方で、ニフティサーブやPC-VANなどのネットでパソコン通信が広まった。翻訳会社も翻訳者からできあがった翻訳をパソコン通信か、MS-DOS対応のフロッピーディスクで求めるようになった。それまでは翻訳会社は翻訳者から上がってきた原稿を右から左に流すしかなかったが、通信やフロッピーディスクで受け取れば編集・加工が可能になる。それは、翻訳会社が扱う翻訳に付加価値を与えるうえで画期的なことだった。
一方、私が最初に買ったワープロにはパソコン通信の機能はおろか、作成した文書をMS-DOSテキストに変換する機能すらなかった。どうしてもMS-DOSフロッピーで納めなければならない場合は、フロッピーディスクを「変換屋」（と私は呼んでいた）に持ち込んでMS-DOSテキストに変換してもらった。「変換屋」とは、いまで言うパソコンおたくがマンションの一室に複数のワープロ機種を揃え、客が指定するフォーマットにコンバートする商売である。その当時、ワープロは百花繚乱、メーカーごとに独自のワープロソフトを開発していたが、互換性がなかったため、こうした商売が成り立ったのだ。私も何度か電車に乗って、5インチのフロッピーディスクを3.5インチのMS-DOSフロッピーに変換してもらい、それを翻訳会社に郵送した。
このように、ワープロで作成した文書を所定のフォーマットに変換したり送ったりするのは大変手間がかかった。が、ワープロメーカーも時代の流れに対応するために、新機能を載せたワープロを次々に送り出した。たとえば5インチのフロッピーから3.5インチに変換する機能を付けたり、入力した文書をMS-DOSテキストに変換してパソコン通信で送れるようにしたり、なんとかパソコンに遅れを取るまいと奮闘した。断然ワープロ派だった私も、メーカーの努力にとことんつきあった。メインのデスクトップワープロの脇に通信機能付きのラップトップを置いて、デスクトップで作成した文書のフロッピーをラップトップに差し替えて送信する、という具合である。
最後に購入したデスクトップワープロのキーボードは、何度交換したか覚えていないほど酷使した。デスクトップはシャープから新機種が出たらすぐにでも買い替えるつもりでいたが、いつまでたっても出ない。そのうちにブラウン管モニターの画面が次第に暗くなり、しまいには文字がほとんど読めないほどになった。努力して読もうとするからストレスがたまる。おまけに仕事の能率も落ちてきたので、たまらずメーカーに電話した。するとワープロの製造はもうとっくに中止されているという。モニターの在庫を調べてもらうと、幸いにも日本全国でまだ3台残っていることがわかったので、その場で注文した。
ほどなくして注文の品が届いた。私は胸を踊らせながら梱包を解き、なかから取り出したモニターをデッキの上に据え付けた。だが悲しいかな、電源を入れると、新品のブラウン管は未使用のまま老化しており、画面はすでに灰色にくすんでいたのである。
（2007年12月18日)