翻訳会社が登録を希望する翻訳者に対して課すトライアルのほかに、産業翻訳の世界にはもう一つのトライアルがある。それはクライアントが翻訳会社を選ぶ際に行う、いわば「選抜試験」である。
たとえば企業が翻訳会社に翻訳の仕事を依頼する場合、どこに出すべきか頭を悩ませる。特に内容が専門的で量も多ければ、使い物にならない翻訳が上がってきたときの損害は大きい。そこで何社かの翻訳会社に原稿の一部を試訳させ、最も出来のよいところに決める。いわゆる「あいみつ」である。翻訳会社としても継続的な受注につなげたいという思惑もあって、なんとしても仕事を取りたい。そこで、自社で抱えているAランクの翻訳者の中でも一番優秀な者に任せる。したがってこの場合は、駆け出しの翻訳者が翻訳会社に頼んでトライアルを受けさせてもらうのとは逆で、翻訳会社のほうから翻訳者にトライアルをお願いする形になる。
翻訳者は翻訳会社に登録されていても、自分がどのようなランクに評価されているのか通常は知らされない。しかし、この種のトライアルを翻訳会社から依頼されることで、自分がその会社でどの位置にいるか推測できる。さらに、企業がトライアルを求めた複数の翻訳会社のうち、自分が担当した翻訳会社が受注すれば、その翻訳会社からの信頼は不動のものとなる。翻訳者同士の横のつながりはほとんどなく、たとえあっても互いの実力のほどはわからない。だから企業が行うトライアルは、翻訳を職業とする者同士が実力を競いあうコンテストのようなものである。もちろんすべて秘密保持のもとで行われるので、どこの翻訳会社から誰がどのような翻訳を出したか全くわからない。しかし、トライアルの最終結果から、この業界における自分の実力のレベルを推し量ることができるのである。
あるとき、懇意にしている翻訳会社から、ドイツの外科器具の歴史をまとめた本の翻訳のトライアルを依頼された。医療関係の企業が創立記念に出版するという。数社の翻訳会社に本文の最初の1ページを試訳させ、その中から発注する翻訳会社を決めるという話だった。私はそのとき手がけていた仕事を片付けてからトライアル原稿に着手した。それからほどなくしてコーディネーターから電話が入り、「申し訳ありませんが、先日お願いしたトライアルはキャンセルさせてください」と悲痛な声で言う。わけを聞くと、客先の担当者が別の翻訳会社から先に上がってきた訳を社長に見せたところ、社長が気に入り「これでいく」と決めたので、その翻訳会社に発注してしまったのだという。コーディネーターは「話が違う」と抗議したが、先方の担当者も「なにしろ社長命令なもので」と平謝りの様子。私は「ありそうな話だ」と思いながら、「とにかくできているところまで送るから必ず先方に見せるように」と言って、その時点で仕上がっていた訳稿を送った。しばらくして再びコーディネーターから電話があり、「おかげさまで弊社が受注できました！」と声を弾ませた。
コーディネーターと先方の担当者、その担当者と社長、さらにはすでに発注していた翻訳会社との間でどのようなやり取りがあったのかは知るよしもない。
（2008年10月1日)