日本で最初にワープロ、すなわちワードプロセッサーが発売されたのは1978年、東芝の機械で、価格は630万円だっという。それからワープロはまたたくまに小型化・低価格化して、1985年頃から翻訳会社も導入しだした。翻訳会社は、最初のうちは翻訳者から上がってきた手書きの原稿を自社のワープロで打ち直して各先に納めていた。それが当時は客先に対して他社と差別化するサービスとなった。まもなく自分でワープロを購入する翻訳者もでてきた。
機械で入力し、活字で印字するというのは、明治に始まる日本の近代翻訳の歴史において、まさに革命とも言える出来事だった。それまでは万年筆であれ、ボールペンであれ、鉛筆であれ、すべて手書きで原稿を仕上げていた。ワープロは、いうなれば超小型の活版印刷機であり、翻訳作業を根本から変える潜在力があった。こうしてワープロは急速に普及していった。
しかし私はというと、相変わらず400字詰め原稿用紙に鉛筆で手書きしていた。字にかなり癖があり、しかも仕事はいつも時間との戦いだったので、ほとんど殴り書きに近い状態だった。あまりの読みにくさに、翻訳会社の方で清書することもあった。ワープロを使う翻訳者が増えてくると、コーディネーターから「明瀬さんはまだワープロになさらないのですか」と尋ねられたりした。そんなときは「なにしろ生来不器用なもので」と答えていた。
私がなかなかワープロに踏み切れなかった最大の理由は、使い慣れるまでに時間がかかることを恐れたからだった。それまで欧文タイプライターは打っていたものの、とりわけ速いほうではなかった。そのうえ日本語ワープロはいったんローマ字で入力したものを漢字に変換しなければならず、それもいちいち複数の変換候補のなかから選ぶというではないか。そんなことをしていたら仕事の能率はがた落ちとなること必定。ただでさえ納期を守るのに必死の身としては、とうてい受け入れられなかった。
そんな私がワープロを使ってみようと思い立った一番の理由は、＜推敲＞であった。翻訳がおわると原稿を最初から読み直し、気になるところは消しゴムで消して書き直す。その際に字数がぴったり合うことはまずない。升目が足りないときは字を小さめにしてなんとかおさめ、どうしてもおさまらないときは行間の余白に書き入れる。逆に修正したら文が短くなり、升目があまることもある。そんなわけで推敲すればするほど、原稿用紙は見苦しい状態になり、ついに自分でも見るに耐えない惨状を呈すると、そのページだけ最初から書き直した。そんなことを繰り返しているうちに、ワープロだったら推敲がもっと楽にできるかもしれないと思ったのである。
そこで知人から中古のワープロを譲り受け、使ってみることにした。いきなり大きいものはやれないので、1～2枚程度の短いものを練習も兼ねてワープロで打ち込んだ。実際に使ってみると、確かに時間はかかるものの、書いたり消したりが自由にでき、推敲もこころおきなくやれて、なかなか調子がいい。しばらく使っているうちに慣れてきたので、本格的にワープロを導入する決心をした。機種は何種類か比較検討した末、シャープの「書院」に決めた。価格はプリンターを含めて50万円ほどだった。メーカーから派遣されたインストラクターに基本的な使い方をひととおり習い、その日からすべての仕事をワープロで納品することにした。
初めて翻訳をワープロ原稿で納めたとき、翻訳会社の社長から電話があり、「明瀬さんもついにワープロにしましたか。あの個性的な字が見られなくなると思うと寂しいですね」と、いかにも嬉しそうに言った。
（2007年11月1日)