翻訳にとって＜経験＞は重要なファクターである。翻訳が上達するためには、とにかく翻訳の経験を積む以外にない。
一流のアスリートは１日練習を休むと、その分取り戻すのに1週間かかるという。それだけぎりぎりのところで自分を鍛えているということなのだろう。翻訳もこれと似たところがある。運動選手が1日も欠かさず走り込みをするように、翻訳も毎日やっていないと基礎的な体力や技術を維持できない。それを10年、20年と続けて初めて身につくものが確実にある。
私はスポーツの試合後の勝利者インタビューを聞くのが好きだ。日々の練習とメンタルな鍛錬を積み重ねて栄冠を手にした選手の話を聞きながら、自分の仕事と重ね合わせて確認したり、納得したり、刺激にしたりするのである。特にどの種目ということはない。競技を問わず、優勝した選手が語る言葉はきわめて論理的であることに毎回驚かされる。全員に共通しているのは、自分を精神的・肉体的に極限まで追い込みながら、根底ではその競技が好きでたまらないということである。
翻訳の経験に劣らず重要なのは＜翻訳以外の経験＞である。たとえば自動車関係の翻訳をするのに、実際に車を運転した経験があるかないかで、理解と表現の精度は大きく異なる。もとより一人の人間が森羅万象すべてを経験できるわけではない。しかし、ある経験に基づいて未知の経験を類推することはできる。その意味で趣味であれ気晴らしであれ、現実生活のどんな経験も翻訳に役立たないものはないと言える。
しかし翻訳に最も必要なのは＜人間の経験＞である。翻訳の対象はきわめて多岐にわたるが、すべてに共通しているのは、書かれたものがことごとく人間の事柄だということである。つまりそれらは根本において人間の必要や需要、願望や欲望と関わっている。翻訳する際も、そこまで降りていって初めて書かれたものの全貌を捉えることができる。それには相応の感性と想像力が求められるが、これらは生身の人間と関わることを通してしか培われない。だからどのような分野の翻訳をするにせよ、人間の経験が基礎になければならないのである。
言い換えれば、社会関係から隔絶された「密室」のなかからは貧相な翻訳しか生まれない。翻訳には、社会や他者との関係を通して得た経験が如実に反映される。その意味で翻訳は翻訳者の人生を映し出す鏡と言っても過言ではない。
私自身はと言うと、ガイドの仕事をしていたときにドイツ語の通訳をしたことがきっかけで、社団法人日本オートキャンプ協会（JAC）と関わりを持つようになった。こちらはボランティアであるが、やがて同協会の役員となり、さらに同協会が加盟している国際キャンピング＆キャラバニング連盟（FICC）の理事や、その下部組織であるアジア⋅パシフィック委員会の事務局長を務めるなど、翻訳以外のことにかなりの時間とエネルギーを費やしてきた。国内外の会議や大会、講演や視察と、いやおうなく「密室」の外に呼び出される。そのつど仕事を調整し、場合によっては仕事を断らなければならないのは苦痛ですらあった。だから、オートキャンプの世界では指導的な立場で活動していながら、いっさいの社会生活から身を引いて翻訳に専念したいという誘惑がいつもつきまとった。
もし私がこれまでそうした社会関係に煩わされず、翻訳だけに専念していたらどうだったろうかと夢想することがある。生涯にこなす翻訳の総量はおそらく2割ほど増えたことだろう。他方、人間関係の規模は10分の1にも満たなかったに違いない。問題は、翻訳に専念した場合と、そうでない場合とでは､どちらがより多く私自身の翻訳にプラスになったかである。この問いは長らく私の頭を悩ませてきたが、現在は後者であるという結論に達している。
（2009年8月1日)