産業翻訳は急ぎの仕事が多い。納期が１週間などというのはましなまだ良いほうで、明日の昼まで、極端になると今日の夕方まで、という依頼もある。そんなとき、翻訳会社は「特急料」を申し出ることがある。特急料とは通常の翻訳料金に2割まるいは5割といった上乗せをするものである。翻訳者の側で特急料を設定しているケースもある。しかし私には、この特急料というものがどうも腑に落ちない。昔から「仕事はすべて急ぎ」と心得ているので、とりたてて特別のこととは思えないからだ。もっとも翻訳会社の側から申し出があれば、ありがたく頂戴することにしているが。
ある企業が「今日の午後4時から社内の検討会議にかけるので、それまでに翻訳してもらいたい」と、翻訳会社に依頼してきたとする。コーディネーターは一刻を争って翻訳者を手配しなければならない。翻訳者はそのときの状況や気分次第で断ることもできようが、コーディネーターの方はそうはいかず必死である。そんなコーディネーターの身になると、つい断りきれずに引き受けてしまう。日ごろわがままに仕事をさせてもらっていることへの、せめてもの恩返しという気持ちもある。
特急の仕事が入ると、それまでやっていた仕事を即座に中断する。分野も内容も今しがたやっていたものとはまったく異なるので、いったん頭の中身を空っぽにリセットする。「よし！」と気合を入れて、冒頭から訳していく。意味の不確かな語があれば大至急調べる。しかし特急の場合はじっくり調べたり、念入りに推敲したりする余裕はない。たとえ自分の納得のいくまで時間をかけても、指定時刻に間に合わなければ価値はゼロだからだ。学校の試験でいえば、出題範囲が決まっている定期試験とは違い、何が出るかわからないない実力試験のようなものだ。日ごろの仕事を通して、自分のなかにどれだけ蓄積があるかが問われるのである。
最終的に要点をきちんと押さえ、日本語として読むに耐える文章に仕上げたところで納める。それまでの緊張感と、どうにか指定時刻までにまに合わせることができたときの満足感は、なかなかどうして悪いものではない。
（2008年5月1日)