第8章 生命論的視点
第２節 死
１．死にたいする恐怖
存在とは生成であり、あらゆる存在するものは生成の結果である。存在するものが生成の結果でありえるのは、過去が生成の構造に保持されるからである。過去が生成の構造に保持されることにより、この現在において存在するすべてのものは累積された過去である。人間もこの現在において累積された過去であり、その存在そのものが個人史である。それは人間がこの世界に生まれて以来の体験の積み重ねの結果として存在していることを意味する。人間はこの世界に生まれて以来、そのつどの状況においてさまざまな局面と関わりながら体験を積み重ねる。そのつどの状況における世界との関わりにおいて、主体の諸特性が体制化されて能力として形成される。人間の能力は世界との関わりの過程で状況との作用と反作用をとおして絶えず発展する。人間の体験は人間の能力の発展の函数である。人間の能力が発展するにつれて、人間の体験が深化する。深化した体験は個人史に取り込まれる。体験の結果としての能力の発展と、体験の深化が絡み合いながら個人史は絶えず累積される。しかしこの個人史の不断の累積も、死によって終止符が打たれる。誕生以来連綿と続いてきた個人史は死によって途絶する。種を構成する個体は死んでもその生は他の個体に受け継がれるが、個人史はそれを書き記す主語が消滅すれば完全に途切れる。個人史は本人によっても他の誰によっても書き継がれることはない。死の瞬間にそれまで累積された個人史のいっさいの内容が、誕生以来培ってきた全能力とともに忽然と消えるのである。
ありとあらゆる事象が世界のなかで起こるように、死もこの世界における出来事である。死はこれまでこの世界でともに生きてきた者が突然いなくなるというかたちで経験される。たとえば家で飼っているペットが死ぬとか、一緒に暮らしている家族の一員が他界するといった機会に、死というものが目に見えるかたちで経験される。死は個体としては細胞の死であり、生物の遺伝子レベルではあらかじめプログラムされている。しかし意識のレベルでは死は徹頭徹尾経験的な出来事である。死が経験的な出来事であるとは、死は先天的に知られているものではないことを意味する。もし死が先天的に知られているならば、死にたいする対処の仕方も知られているだろう。だが、人間は死についての先天的知識も、したがってまた死に対処する知恵も持ち合わせていない。
死の経験を重ねるにつれて、死が絶対に避けられないものであることが次第にわかってくる。ペットの死を目撃し、家族や親戚との死別に遭遇し、あるいは歴史に登場するどんな英雄も最後は死を迎えたことを知って、命あるものにとって死は避けられないという認識をもつようになる。そのうえ生きられる年数は種によってほぼ決まっているようだ。一つの種に属するすべての個体が正確に同じ年数で死ぬわけではないが、その種の平均寿命を大幅に越えて生きながらえることはない。人間という生物種もその例外ではない。自分の親も、兄弟も、そして最後には自分自身も遠からず死ぬ。しかもかならず順番に寿命を迎えて死ぬとは限らず、病気や事故で早すぎる死を迎えることもある。寿命であれ、病死であれ、事故死であれ、死はどんなことをしても避けられない。こうして人間は徐々に死というものを認識するとともに、死にたいする恐怖心が芽生える。死にたいする恐怖心は漠然としたものであるが、それは死が曖昧なものであることをいささかも意味するものではない。死は生命機能の停止以外のなにものでもない。それゆえ死それ自体は単純明快である。しかし人間の死にたいする恐怖心は死そのもののように単純でも明快でもない。それは死という単純このうえない出来事が、人間にとってはさまざまに深刻な意味合いをもっているからである。死が人間にとってそうした意味合いをもつことは、それ自体が人間と人間以外の死すべきものとの本質的な相違を示唆するものである。それゆえ人間が死にたいして抱く恐怖心の実相を探ることは、人間と人間以外の生き物との違いを照らし出すことに、ひいては人間とはいかなる生き物であるかを明らかにすることにつながるはずである。
(１）人間が死を恐れる第一の理由
死はとなによりも親しい者との死別である。家族、親戚、友人、恋人はいうに及ばず、犬や猫などのペットでも、それまで共通の時間を過ごしてきた者が死んでしまえば二度と再び会えなくなる。家族のだれかが地球の裏側の土地に永住したり、親しい人間が遠い異国の地で終身牢に入れられたりするような場合も、一生会えなくなるという点では死別と変わらないように思える。しかしそれらは死別ではなく離別である。死別と離別は本質的に異なる。離別の場合はこの世界からいなくなるわけではなく、依然としてこの世界に存在している。離別とは、ここにはいないという意味で「不在」である。そもそも不在は、不在の主が存在していることを前提としている。誰かがここにいないことは、別の場所にいるという事実もしくはその推定のうえに成り立つ。つまり不在とは存在の一様態にほかならない。だが、死の経験をとおしてどんな不在とも異質の別れがあることが知られる。死ねば地球の裏側はおろか、宇宙の果てにも存在しなくなる。それは不在ではなく「非在」である。ここにいないのではなく、どこにもいない。端的にこの世界から消え去るのである。この事実を受け入れるのは、人間にとってけっして容易ではない。死がわれわれにとって恐ろしいのは、なによりも家族や親しい者と永遠に別れなければならないことである。それはこれから死にゆく者にとっても、そのあとに残される家族にとっても同様である。たとえ死が差し迫っていなくても、いつか必ずそういう日が来るという確信が万人の恐怖心を呼ぶ。そのため人間は知性と感情と意志の限りを尽くして非在を打ち消しにかかる。死者はこの世界には存在しないが、どこか別の世界に存在しているのだ、と。こうして太古よりこのかた「来世」、「天国」、「冥界」、「あの世」、「彼岸」など、死後の世界にまつわるありとあらゆる物語が編み出されてきた。それらはすべて非在を不在に変えようとする絶望的な努力の跡である。
(２）人間が死を恐れる第二の理由
穏やかに他界した死者の顔を見ると、生きていたときの顔といささかも変わらない。棺に納められた死者は目をつむり、顔からは血の気が失せて体は冷たくなっているが、きのうまで生きていた故人が厳としてそこにいる。しかし棺を取り囲む遺族は、故人がそこにいながら絶対にそこにはいないことを知っている。そこにいるのは故人の身体にすぎず、＜身体に包まれた心＞はそこにはない。しかし心がなければそれはもはや身体でさえなく肉体＝物である。死後時間がたつと腸内に生息している細菌や微生物が活発化し、肉体＝物は腐乱して形態が変わる。そのためできるだけ速やかに死体を土に埋めたり、焼却したりして人の視界から消し去る必要がある。身体の方はこのように物理的に処理すればいいが、問題は心である。心は身体が死ぬと同時に消え失せる。本来なら心の問題はこれで片付くはずであるが、心が身体の死とともに瞬時にして消え失せるという事実こそ、人間にとって最も受け入れがたいことである。それまで生きて周囲の人や事物と交わり活動してきた人間が、死によって突然いなくなる。いなくなるのは身体ではない。現に身体は肉体＝物として少なくともしばらくはそここにある。いなくなるのは心である。心が消滅するとは、故人の記憶に保存されているすべての体験が、誕生以来体験の積み重ねによって形成してきた能力もろとも完全に消え失せることである。総じて死は個人史の途絶である。死がわれわれにとって恐ろしいのは、誕生以来書き続けられてきた個人史が途絶えることである。だから人間は身体の死は生きとし生けるものの運命として受け入れはしても、心の死を受け入れることには激しく抵抗する。たとえ身体は死んでも、心だけはなんとか死を免れさせたい。そこで心は消え失せたのではなく、故人の体から魂となって抜け出して、別の世界に行ったことにする。そのために人が死ぬと、魂を別の世界に送るための手の込んだ儀式をおこなう。意味ありげな葬具で飾りつけられるだけ飾りつけ、ありとあらゆる工夫を凝らして荘厳な雰囲気を醸し出しては、神秘めかした経文が朗唱される。だが、本当にこの世界とは別の世界があって、人間は死んだらそこに行くことが決まっているならば、これほど手の込んだ仕掛けは必要ないはずである。人知の限りを尽くして別の世界を演出するのは、死者を別の世界に送り届けるためというよりは、むしろ残された者が死者は別の世界に行ったと信じるためであろう。それはまた残された者が、自分もまた死んだらそこに行けるとみずからを納得させるための手続きでもある。
(３）人間が死を恐れる第三の理由
人間がこの世界に生まれるのは、生物として生れることであり、そのメカニズムは生物学の研究対象である。死そのものは、この世に誕生した身体が成長と老化のプロセスを経て生命機能を維持できなくなるという純粋に生理学的的な現象である。そこには不明なことはいっさいない。医師は呼吸と脈拍と瞳孔を調べて、あっさり臨終を宣告する。だが、人間にとって死が問題であるのは身体そのものの死ではなく、身体が死ぬとそれに伴って＜身体に包まれた心＞が消え失せることである。＜身体に包まれた心＞が消え失せるとは、心の主語である私が消滅することである。人間がこの世界に生まれるのは、生物としてだけでなく、ほかならぬ人間として生まれることでもある。人間として生まれるとは、私が私自身に出会うことである。私が私自身と出会うとは、自我が出現することである。私は現に在ることにおいて＜いま・ここ＞に立ち現れて私自身に顕現する。すなわち私は＜いま・ここ＞で私自身と出会う。私が私自身に出会うことが、およそ人間に関係するすべての始まりである。私は特定の環境と境遇のもとで他者および対象と関わり、体験を積みかさねながら個人史を書き連ねる。その私が死によって永久に消滅するのである。私が＜いま・ここ＞において私自身と出会うことによって私が出現する。そして私を起点として私の外が広がり、そこに世界の光景が繰り広げられる。それは私が生まれて以来一時も休むことなく関わり続ける世界である。私はそのつどの状況において世界と関わり続ける。それは＜いま・ここ＞を起点とするパースペクティヴに繰り入れられる私の世界である。しかし私が死ねば私は消滅し、私の世界も消え去る。私の外は永久に閉じて二度と開くことはない。心を魂に見立てて別の世界に救い上げようという懸命の努力は、死によって私が私自身と会えなくなるという事実が人間に与える衝撃と恐怖を逆照明している。
(４）人間が死を恐れる第四の理由
死がわれわれにとって恐ろしいのは、死によって人間がこの世界に生きている意味が危うくされることである。死はあくまでも経験的な出来事であるから、死の不可避性は生まれる前には知らされない。人間の運命を支配する死の不可避性は、人間がこの世に生まれたあと、それもかなりの年月を経てようやく知ることになる。それは契約を結んだあとで、契約書のどこにも書かれていない重大な事項が告知されるようなものである。死が避けられないことを知らされたとき、人間にとって差し迫った問題は現に生きていることをいかに肯定できるかである。というのも人間は必ず死ぬことが決まっている人生にどんな意味があるのか、知らずにすませられないからである。すなわち、自分はなにゆえ生まれてきたのか。人間はなんのために生きるのか。死んだらどこへ行くのか。生まれてきた理由がわかれば、人生の意味も、そのあとの行き先も明らかになるだろう。しかし人生の契約には生まれてきた理由はどこにも書かれていない。死によって人間がこの世界に生きている意味が危うくされるのを避けるには、生まれる前までさかのぼって契約を見直すしかない。契約を見直すとは、この世に生まれてくる理由と意味を明記した条文を書き加えることである。生まれる前にさかのぼって意味を求めようとすれば、目的連関の頂点に君臨して人間の生に意味を与える超越的目的、すなわち神を引き合いに出すほかはない。なぜなら宇宙の摂理を支配する神でなければ、人間が生まれて死ぬことの意味を指し示すことはできないだろうから。しかしまたそのような超越的目的は認識によってはとらえられず、ただ信仰によってのみ到達できる。こうして信仰と引き換えに神から生まれてきた意味と、生きる目的と、死後の行き先を書き記した契約書が手渡される。人間はひたすら信仰心を高めてこの契約を遵守しようとする。このような必死の努力の根底にあるのは、人間の生きる意味への渇望である。知恵の実を食べた人間は、もはやパンだけで生きることができない。パンが満たすことができるのは体の飢えだけである。心の飢えを満たすことができるのは意味しかない。
あらゆる生物種のなかで生きる意味を求めるのは人間だけである。それは人間がその存在の根底で個体と個の分裂を抱えているからである。個体と個の分裂のために、人間は根本的に生の自己肯定から疎外されている。生の自己肯定から疎外された人間は、それを補償するためになんらかの仕方で生を肯定しなければならない。しかしそれは生の直接的な肯定ではない。生から疎外された人間には生を直接肯定することは許されない。というより人間はもともと生を直接肯定することが不可能であることから出発している。人間に許されている補償の方法は、生の直接的な肯定ではなく、意味を介する肯定である。人間が自己の生を肯定できるためには、生は意味あるものでなければならない。生が意味あるものであるためには、そもそも生まれてくる理由がなければならない。生まれてくる理由があってはじめて生きる意味がある。生まれてくる理由がないならば、人間はただ生まれて死ぬことになる。ただ生まれて死ぬことは、死ぬために生まれてくることと同義である。死ぬために生まれてくる生は、死ぬために生きることにほかならない。だが、死ぬために生きるとは、まさしく生きる意味の否定であり、それは生の自己否定に等しい。生の本質は自己肯定にあるから、このような生の自己否定はそれと正反対である。このように生まれてくる理由から生きる意味を求めようとすると、かえって生の自己否定にいきつく。この生の自己否定は、生きることに意味を求める人間にとって避けられない帰結である。かくして人間にとって死は不条理以外のなにものでもない。
しかし死が不条理なのは人間にとってだけである。植物の種子は発芽して成長し、花を咲かせたあと枯死する。やがて季節がめぐりふたたび種子は芽を出し、同じ成長と衰退と再生のプロセスを繰り返す。それは植物に限ったことではなく、動物でも同じである。セミは幼虫時代に暗い土のなかで長い年月を過ごしたあと地上に出て羽化する。明るい世界を自由に飛べるようになってからは数週間しか生きられず、そのあいだ交尾する相手を求めて鳴き続ける。カゲロウにいたっては羽化した成虫は食物を摂取するための口器すらなく、ひたすら交尾の相手を探して飛び回り1日足らずで死んでいく。雄カマキリは交尾している最中に雌カマキリに食べられることがある。こうして虫たちはそれぞれ子孫を残す手筈を整えて静かに死んでいく。このプロセスは太古以来無限に繰り返されてきたが、そこにに貫かれているのはひたすら存続を追求する生の自己目的である。そこには生きる意味などない。これらの小動物の生は文字どおり「無意味」である。しかしもともとかれらは意味を求めてもいなければ、意味を必要としてもいない。それというのも意味は生の否定もしくは生の欠如の代償だからである。生物にあっては、生は自己目的の遂行としてそれ自体において肯定されている。生が自己目的を遂行するプロセスを自然の条理と呼ぶならば、生物にとって死は生命を与え、生物を文字どおり「生き物」としている自然の条理である。
もし死がなく生が永遠に存続するとしたら、動物であれ植物であれ子孫を作る必要がない。子孫を残す必要がなければ、成長する必要さえない。花が美しく咲くのは、昆虫をおびきよせて受粉を促すためである。植物が受粉して子孫を残そうとしなければ、花を咲かせることもない。それどころか植物の種子が土のなかから芽を出して、水と太陽の光を取り込んで成長することもあるまい。もし死がないとしたら生物は永久凍土に埋もれた種子の状態で永遠に生き続けるだろう。その場合、永遠の生とは永遠の無為と同義である。それは眠っている状態が永遠に続くようなものである。夢を見ることもない暗黒の眠りが永遠に続くとしたら、それは死の状態といささかも変わるものではない。しかも生まれて死ぬのではなく、およそ生まれないのである。「およそ生まれない」とは、言葉の真の意味における無である。無は死と同じではない。なぜなら無は文字どおりなにものも生み出さないが、死はそれとは反対に誕生と成長と再生をもたらすからである。
そもそも生きることは不可避的に死ぬことを前提としている。死そのものは一瞬の出来事である。ある瞬間に存在が非在に転化し、そこですべてが立ち消える。その先にはなにもない。しかしその先になにもないからこそ死は生を限定できるのである。生は死に限定されて、はじめて生まれてから死ぬまでの生成の過程でありえる。死に限定されることによって個体の生が生成の過程として成立する。逆に死によって限定されることがなければ、生そのものが存在しない。なぜなら死によって限定されなければ個体の生は永遠に続くことになり、永遠に続く生は永遠の無為に帰着するからである。永遠の無為とは、およそ生まれないことである。それはまさに生の自己目的の対極である。生の自己目的は死によって限定されてはじめて個体の生として発現する。個体の生は死ぬことによって次の個体に受け継がれる。個体に受け継がれた生はふたたび死に至るプロセスを経てさらに次の個体へと引き渡される。このように生は死に限定されることによって個体の生として寸断される。死による生の限定は生が永遠の無為に帰着することなく、逆に永遠に存続するための自然の究極の戦略である。
(５）人間が死を恐れる第五の理由
われわれにとって死が恐ろしい最後の理由は、人間は必ず死ぬのであれば生きる努力がすべて無駄に思われることである。死ぬことに決まっているのならば、人生でなにごとかをすることは無駄ではないか。もっと具体的にいえば、人生でなにかを実現したとしても、その成果が死によってすべて消え去るならば所詮無意味ではないか。意味を求めることを宿命づけられた人間にとってこの論理には抗しがたい説得力がある。たしかに死が避けられないことが人生からあらゆる意味を奪うとしたら、人生でなにごとかをすることは無駄だろう。さらには生まれてくること自体が無駄なことだろう。だが、生まれてきても生まれてこなくても同じだとしたら、あるいはなにごとかをすることとなにもしないことが等価であるとしたら、自然は生を作り出すことに余分なエネルギーを使うことはなかったはずである。しかし実際のところ自然は鉱物の状態では満足せずに生を作り出した。自然を擬人化してこれを「自然の意志」と呼ぶことはレトリックとしては許されよう。が、約40億年前に地球上に生命が誕生したとき、そこにはいかなる意志も主体もなければ、どのような意志も働かなかった。生命はまったく偶然に誕生したのである。この偶然に誕生した生命が他のいかなる存在物とも異なっていたのは、生命は生命そのものの存続を追求するという特徴をもっていたことである。あたかも水が高きから低きに流れるという法則に従ってどんな狭い隙間にも流れ込み、隙間がないところでは滞留して、やがてたまりにたまった水は洪水となって溢れ出るように、生命はひたすら生命そのものの存続をめざして突き進む。生命そのものの存続をめざすとは、生命の存続を目的とすることである。生命ははそれ自体が充足である。生命はそれ自体における充足を維持することを目的とする。この生の自己目的を貫徹するために生命は淘汰の試練を経て進化し、その結果際限なく多様化した。そして生命の進化の最終段階に人間が生まれた。人間も生物種としては生の自己目的の産物であり、種と個体、生殖と誕生、生と死の基本原理に組み込まれている。この点で人間は根本的に他の生物と同じく生の自己目的に支配されている。
２．人間の自由
生の自己目的を体現する生物は、ひたすらその生を維持するために活動する。生を維持する活動とは、本質的に自然を体内に取り込んでみずからに同化し、生命エネルギーに転化することである。人間を含むすべての生物はこのような生命活動を営んでいる。植物は光合成によって光のエネルギーを生命エネルギーに変換する。草食動物は植物を栄養として摂取して、生命維持に必要なエネルギーを獲得する。肉食動物は草食動物を捕食する。人間はこれらの植物や動物を栄養にして生命を維持する。生物は生の自己目的に支配されて、生命を維持するためのそれぞれの行動様式をもっている。これらの行動様式は種に特有であり、特定の種が存続する全期間をとおして変わることはない。人間が他の生物と異なるのは、生命維持活動を意識的な活動として企図することである。人間は生の自己目的に組み込まれながら、その生命を維持するためにみずからの意志で企図する。企図において目的が措定され、その目的を達成するために目的連関が策定される。策定された目的連関を遂行するために、技術を駆使し、機械や道具を使って自然に働きかける。自然に働きかける結果として自然から反作用を受ける。このような自然への働きかけと自然からの反作用の過程で技術は変容を被る。すなわち技術は、企図を重ねるごとに発展する。人間は自然との関わりにおいて絶えず企図し、企図をとおして技術を発展させ、それを言葉によって後続の世代に伝えてきた。その結果人間はあらゆる生物種のなかで唯一文明を誕生させた。このように人間が進化を続けてきたのは、自然との関わりにおいて不断に企図し続けたからである。
人間が他のいかなる生物とも異なるのは、自分が生の自己目的の基本原理に組み込まれていること、すなわち自分が死すべきものであることを自覚している点である。人間は自分が死ななければならないことを不条理と受けとめ、そのために絶望もする。しかし同時に人間はこの死の自覚によって生の自己目的から逸脱している。つまり、人間はまさに死を恐れ、死に絶望することにおいて、生の自己目的による支配を免れている。生の自己目的に支配されるとは、生の自己目的に盲目的に服従することである。生の自己目的に対していかなる疑念も抱かずに、黙々と生まれ、生き、死んでいくことである。人間は生の自己目的に盲目的に服従することなく、死を恐れ、死を嘆き、死に絶望し、そしてなんとかして死に抗おうとする。その限りで人間は生の自己目的による支配の手から脱している。生の自己目的に支配されていない限りにおいて人間は自由である。
人間は個体であることにおいて生の自己目的に支配されているが、個であることにおいて個体から引き離されている。個としの人間は生との一体性から疎外されている。生との一体性から疎外されているからこそ、人間はその限りにおいて生の自己目的から自由である。この自由のゆえに人間は生の自己目的に盲目的に従う代わりに、みずからの意志で目的を立てることができる。目的を立てるとは、企図することである。人間にとって企図が可能である根拠は自由である。ここで自由とは、生の自己目的の全面的支配からの自由である。企図は、あらゆる生物のうちで生の自己目的にたいする盲目的な服従から自由である人間のみがなしえる。いいかえれば人間は企図することによってのみ人間であり続ける。逆にいえば、企図しなければ、人間は動物へ、動物から植物へ、そして植物から鉱物へと退行する方向に進むだろう。それゆえ人間は人間であり続けるためには、不断に企図しなければならないのである。
根本的に生から離反した人間がつねにめざすべきは、死に限定された生において不断の企図をとおして意味を生み出すこと、そしてその意味によってみずからの生に価値を与えることである。生はそれ自体が目的として完結しており、そこには自己の外に措定される目的はない。したがって目的の措定とその達成の過程で生じる意味もない。人間は個体として生きている以上、生の自己目的に支配されている。生の自己目的は自己完結しており、そこには措定される目的はなく、目的のないところに意味は存在しない。それゆえ人間の生には意味がない。つまり人間が生きる意味はない。人間の生には意味がないが、その代わりに人間は意味を作り出す自由をもっている。人間が意味を作り出すならば、それに応じてみずからの生に価値を与えることができる。そうすることによって、人間ははじめて自己の生を肯定的に受けとめることができる。それは人間の存在の内部で必然的に帰結する生からの離反を生の自己肯定に再転化することである。自己肯定の状態において人間は離反した生を回復する。生を回復して生と一体化するとき、人間の存在はそれ自体で肯定される。生それ自体が肯定の証しとなり、現に生きていることが端的に「よし」とされる。そのとき旧約の神が微笑む。