イギリス１
人類の歴史においてキャンプは古くから行なわれてきました。遊牧生活や戦争や軍隊の訓練などにキャンプは欠かせませんでした。しかしそれらはいずれも生活や訓練の手段としてのキャンプです。これに対して余暇を楽しむことを目的として行なうキャンプ、それが近代キャンプです。言い換えれば近代キャンプとはレジャーとしてのキャンプです。では、そのような近代キャンプはいつ、どのようにして生まれたのでしょうか。
18世紀後半にイギリスで産業革命が起きると、都市では工業製品を生産するための工場が建設され、多くの農民が都市に流入して工場労働者になりました。これらの工場労働者は低賃金と長時間労働に苦しめられました。しかも都市は人口過密となり、大気や水は汚染され、コレラが流行するなどきわめて劣悪な環境でした。
19世紀中頃から機械工業が発達して生産性が向上するにつれて、労働時間は次第に短縮され、労働者の所得も増加しました。ようやく生活にゆとりがでてきた労働者が週末に都会を脱出して、行楽に出かけるようになったのはごく自然のなりゆきでした。これに呼応して都市周辺の行楽地やリゾートが急速な勢いで開発され、遊園地、レストラン、ホテル、土産物屋など商業的な施設が次々と建てられていきました。
イギリスでは伝統的に貴族の間でピクニックが盛んに行なわれていましたが、19世紀後半には庶民の間でも余暇にピクニックを楽しむようになりました。人々は商業主義に侵されていない景勝地を選び、自分たちで食べ物や飲み物を用意して出かけました。
ピクニックの習慣が一般庶民の間に定着したころ、サイクリングやカヌーなどのアウトドアレジャーも生まれました。一部の愛好家は自転車やカヌーにテントを積んで野営するようになりました。こうしてレジャーを目的としたキャンプ、すなわち近代キャンプが誕生したのです。
このように近代キャンプは産業革命後のイギリスで、時間的、金銭的に余裕のできた都市生活者が余暇に自然を求めて都会を脱出するようになったことから生まれたレジャーです。そのため特定の「創始者」の名前を挙げることはできません。しかし、その発生から1世紀以上を経てなお発展を続けている近代キャンプの歴史をさかのぼるとき、一つの名前にゆきあたります。それはトーマス・ハイラム・ホールディングです。
1844年イングランド中西部に生まれたホールディングはアウトドアが大好きで、当時登場したサイクリングやカヌーに夢中になりました。ホールディングは自転車にテントを積んでキャンプをしながらサイクリングを楽しむ「サイクルキャンパー」でした。1898年に書いた『自転車とキャンプ』のなかでこう書いています。
「私はホテルに泊まるより、キャンプの方が好きだ。なぜならば、キャンプは単に経済的だというだけでなく、自由という贅沢を味わうことができるから。」
このときホールディングが使っていた自転車はチェーンがなく、ペダルが直接前輪の車軸に固定されたタイプでした。これにテントやキャンプ道具を積んで走るのはかなり大変なことでした。食糧はキャンプする先の農場で調達するのが普通でした。食べることと並んでキャンプで大事なのは、雨に濡れないことです。そこでホールディングは屋根を急勾配にしたA型テントを考案しました。それは木製のポールにテントを張り、ロープで地面に固定しただけのシンプルなものでした。テント生地は一応防水処理が施されていましたが、フライシートがない一重だったので、雨が漏るのは避けられませんでした。そのため雨降りのときはテントンの中でコートを着て、脚絆を履いたまま寝ました。
1901年、ホールディングはサイクルキャンパー12名を集めて「サイクル・キャンパーズ協会」（ACC）を設立し、みずから会長に就任しました。サイクルキャンパーにとって最大の課題はいかにして必要なキャンプ道具を自転車に積むかということでした。ホールディングは裁縫師の本業を生かして軽量のテントをデザインするとともに、コンパクトなキャンプ用具を次々と開発していきました。
近代キャンプのキーワードは＜個人＞です。訓練キャンプのように集団で組織的にキャンプするのではなく、移動・輸送・宿営などすべて個人で行ないます。そのために欠かせないのが個人移動手段と、個人で持ち運びできるキャンプ道具です。軽量テントとコンパクトなキャンプ道具を自転車に積んでキャンプしたトーマス・ホールディングは、まさに近代キャンプの基本スタイルを確立したと言えるでしょう。
イギリスで生まれた近代キャンプは、まもなく産業革命の波及に伴いベルギー、フランス、オランダ、アメリカへと広がっていきました。当時キャンプの移動手段は鉄道、馬車、自転車が主でしたが、やがて20世紀に入って自動車が普及すると近代キャンプは「オートキャンプ」という形態を取るのです。
（日本オートキャンプ協会メールマガジン「オートキャンプ」2022年7月）